若生智男さん死去 通算121勝虎の“火の玉投手” 大毎から阪神移籍の64年V貢献 村山、江夏、バッキーと先発4本柱

 若生智男氏(2018年12月撮影)
 力投する大毎オリオンズ・若生智男投手=1962年7月
 阪神現役時代の若生智男さん=1969年5月
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 大毎(現ロッテ)、阪神、広島で通算121勝を挙げ、多くの球団で投手コーチを務めた、デイリースポーツ評論家の若生智男さんが3日、肝臓がんのため千葉県船橋市内の病院で死去した。87歳。宮城県出身。通夜は7日午後6時から、葬儀・告別式は8日午後1時15分から、船橋市市場2の9の1、古谷式典船橋斎苑で執り行われる。喪主は妻・美知子(みちこ)さんが務める。

 “火の玉投手”と呼ばれ、虎のリーグ優勝にも貢献した若生さんが帰らぬ人となった。昨年12月にデイリースポーツ主催の「阪神タイガース祝勝会」に出席した際には恒例の乾杯のあいさつを行い、元気な姿を見せていた。だが、約2週間前に体調を崩して緊急入院。親族によると最近は中学生に指導していたといい、最後まで野球が生きがいだった。

 若生さんは宮城・東北高から1956年に毎日に入団。5年目の60年に初めて2桁勝利をマークし、リーグ優勝に貢献。日本シリーズにも出場した。64年には小山正明、山内一弘の「世紀のトレード」と並行してソロムコとの交換トレードで阪神へ。移籍1年目にリーグ優勝を経験した。南海との日本シリーズでは2試合に登板。野村とは大毎時代から対戦を重ね「ええ球放っとるなあ」と声を掛けられたという。

 全盛期を迎えたのは阪神時代だ。69年5月11日には王貞治から3球三振を奪うなど1-0で巨人戦初完封を飾った。それまでブルペンで見せるボールは超一級品でも、マウンドに上がると弱気の虫が顔をのぞかせることがあった。藤本定義監督からの「球速いだけじゃダメじゃ」という言葉に奮い立ち緩急、制球力を磨いた。188センチの長身から投じる速球を武器に村山、江夏、バッキーと先発4本柱として活躍した。

 タテジマで11年間プレーした後、75年に安仁屋宗八とのトレードで広島へ。新天地ではベテランとして熟練の投球で先発陣の窮地を救い、初優勝メンバーとなった。翌76年に21年間の現役生活に別れを告げ、所属した3チームで日本シリーズに出場したのは初めての快挙だった。

 引退後はロッテ、阪神、ダイエーなどで投手コーチを歴任。デイリースポーツ評論家としても健筆をふるい、投手心理の分析や育成論には定評があった。東北高でダルビッシュ(現パドレス)を育てるなど、高校野球界の名指導者・若生正広さん(21年他界)は実弟。プロ、アマ球界の発展に兄弟で尽力してきた。

 64年の日本シリーズは3勝4敗で涙をのんだ。昨秋、阪神とオリックスによる“関西シリーズ”が実現した際には「あのとき以来の関西対決か…。あの時、つかめなかった夢を後輩たちに託しながら59年ぶりの関西対決を楽しみたい」としみじみと語っていた。悲願の日本一を見届けて、若生さんは天国へ旅立った。

 ◆若生 智男(わこう・ともお)1937年4月5日生まれ。宮城県出身。現役時代は右投げ右打ちの投手。東北から1956年毎日(現ロッテ)入団。大毎時代の60年に13勝を挙げてリーグ優勝に貢献。64年阪神に移籍してリーグ優勝。69年から3年連続2桁勝利。75年広島移籍後、76年現役引退。広島、ロッテ、阪神、ダイエー(現ソフトバンク)、横浜(現DeNA)でコーチを歴任。その後、デイリースポーツ評論家を務めた。通算成績は628試合で121勝120敗2セーブ、防御率2・71。

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