【きょうは何の日】2010年阪神 鉄人金本知憲4月21日の再スタート

 「阪神1-2広島」(2010年4月21日、甲子園球場)

 1-1で迎えた八回だった。「代打・金本(知憲)」のコールに、地鳴り響く甲子園球場。手負いの鉄人が意地を見せた。

 先頭のマット・マートンが四球を選ぶと、代打で登場。前田健太(現ツインズ)がカウント1-2から投じた4球目、145キロを真っ向から叩き、ライナーで右前へと運んだ。代打3戦目で飛び出した初安打は、広島時代の98年8月21日・巨人戦での3ラン以来、実に12年ぶりの代打安打だった。

 この年、3月のオープン戦前練習で、味方選手と激突して肩を強打。手負いでの出場を続ける中、4月18日の横浜戦(現DeNA)戦の試合前、当時の真弓明信監督に「これ以上出てもチームに迷惑をかける」と申し出て、スタメンから外れる。世界記録を更新していた連続試合フルイニング出場の記録は1492試合で止まった。

 真弓監督も全幅の信頼を寄せる中、以降は代打で待機。出場3戦目で、相手エースを打ち砕く安打でもあった。

 それでも、同年6月。福岡県内の病院で絶望的な診断を受けた。「右肩棘(きょく)上筋断裂」の重傷であることが判明した。医師からは「ケガじゃない。病気。がんに例えるなら末期だよ。手術が必要になるが、完治まで1年以上かかる」と告知された。

 ただ、手術したとしても、復帰した前例はなかった。絶望的な宣告。だがこの状況でも、金本の心は折れなかった。「『今までは』ということでしょ。僕が復活したら、それが変わる。前例がないなら、僕が前例になればいい」。試合に出場しながらのリハビリで、練習時間はさらに増えた。それでも「練習に割く時間って、こんなにあるんやな」と言って笑った。

 「このケガで野球をあきらめた人がいる。復活できたら、勇気を与えられるから。ダメと言われても、ダメじゃないことを証明したい」。周囲には復活への秘めた思いを口にしていた。過去、左膝の半月板損傷で出場を続けた。死球で左手首の軟骨を損傷しながら、右手1本でも打席に立った。頭部死球を受けた次打席で、本塁打を放ったこともある。ケガに屈しない鉄人の心。その体で人々の夢や、希望を担ってきた。

 2012年6月3日の日本ハム戦では、史上9人目の通算1500打点を、最年長となる44歳2カ月で達成。従来の最年長記録は落合博満の42歳8カ月。2501試合目の出場で、張本勲の2368試合を超え、最も遅い到達にもなった。

 確かな前例を作り、数々の記録も残した。それでも同年9月12日、現役引退を決め、記者会見を開いた。

 「正直自分に対する限界。時代の流れで若手に切り替わって行く中で、いつまでもパフォーマンスを出せない自分がいるのも、肩身が狭い思いもあった。体がしんどいなという思いもあります」

 激動の野球人生だった。91年のドラフト4位で広島に入団。「クビを覚悟した」と言う屈辱の3年が、21年に及ぶプロ野球人生の礎だ。江藤智、前田智徳、緒方孝市に野村謙二郎。後に黄金期を迎えるカープで、ドラフト4位の金本は日陰の存在だった。同世代の有望株が徹底指導を受ける中、球場を去ることしかできない日々。悔しさを練習の力に変えた。

 自宅にティー打撃用のネットを購入。知人に頼み込んで、1000球の打ち込みを日課にした。1日も欠かさなかった。住宅が並ぶ敷地内。打ち損じれば止まっている車、近隣の住宅を傷つける可能性すらあった。「そんなもん弁償すればええんや」。そう言って来る日も来る日もバットを振った。「今にみとけよ」。反骨心が鉄人と呼ばれる男の原点だった。

 03年の阪神移籍後は同年、05年と2度のリーグ優勝に貢献。世界記録となる1492試合連続フルイニング出場に、史上7人目の2500安打にも到達した。数々の偉業を成し遂げたが、最も誇ったのはプロ野球記録の「1002打席連続無併殺打」。野球への情熱だった。「併殺打は(併殺崩れでも)打率が下がる局面ですけど、そこでも一塁に全力で走ることができたので。フルイニング記録より誇りに思いますね」

 4月21日の再スタートから始まった奇跡の軌跡。輝かしい数々の記録が栄光なら、前例ないケガからの復活は勲章だ。不屈の闘志は、いまなおチームに受け継がれ、ファンの間で語り継がれている。

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