年に3度花が咲く霊木に、バブル期に行方不明になったキツネのほこら…歴史ある大阪の坂道「天王寺七坂」の不思議

大阪・ミナミの繁華街や、日本一の高さを誇るビル「あべのハルカス」からほど近い場所にある「天王寺七坂」は、知る人ぞ知る大阪の観光スポットだ。大阪の中心部を走る「上町台地」の西側、千日前通より南に七つある坂道で、名所旧跡があるだけでなく。ミステリアスな出来事も多い。1年3度も花が咲く霊木に、バブル期に行方が分からなくなったキツネの祠(ほこら)まで…。“坂道マニア”たちの心をとらえてきた七坂をめぐってみよう。

■あの人気作家の作品にも登場する七つの坂道

大阪市の中心部には、北は上本町付近から南は住吉大社あたりまで長さ約12km、最大幅約2kmの「上町台地」と呼ばれる台地がある。古代には、南側以外の三方を海に囲まれた半島だった。最も高い部分の標高は32.9mで、その地点には大阪城が建っている。

「天王寺七坂」とは、上町台地の西側、千日前通より南に七つある坂道のこと。景観に風情があることから訪れる人も多い。小説のモチーフになったこともあり、有栖川有栖の短編集「幻坂」には、七坂それぞれを舞台に、ホラー要素をちりばめたストーリーが展開される短編作品が収められていて、その坂を訪れたら本当に遭遇しそうな世界観が描かれている。

それでは北から順に七坂を歩いてみよう。

■坂の上は上方落語発祥の地…真言坂(しんごんざか)

天王寺七坂は上町台地の西側にあると書いたが、真言坂だけが北側にある。

下寺町交差点からひとつ東側の辻が上り口になっていて、石の道標に「真言坂」と彫られている。周辺はマンションやホテルばかりになっているが、かつては「生玉十坊」と呼ばれた真言宗の寺院が十坊あったことから「真言坂」と呼ばれるようになった。

江戸中期に刊行された「摂津名所図会(せっつめいしょずえ)」には「生玉真言坂」と表記されていて、石段として描かれている。石畳で綺麗に整備された坂を上りきったら、日本書紀にも登場する生國魂神社の「北の鳥居」がある。ちなみに生國魂神社は、上方落語発祥の地としても知られている。江戸時代中期に、米澤彦八という大道芸人が大名や芝居役者の物まねを披露したのが始まりとされ、境内には彦八を顕彰する石碑が建立されている。

■キツネを祀った祠の行方が今も不明のまま…源聖寺坂(げんしょうじざか)

坂の名は、上り口にある源聖寺に由来する。上り口から10メートルあたりまでの石畳は、昭和44年に廃止された市電の路面から剥がされた敷石が使われている。

天王寺区史によると、階段を上りきったところに、コンニャクが好きなキツネを祀った「こんにやくの八兵衛」という祠があった。「祠」とは神様を祀る小さな社(やしろ)のこと。昭和の末期、その祠を遷座した際に行方が分からなくなってしまったという。これについて「生國魂神社に移された」という出所不明の説があることを知り、実際に生國魂神社へ行ってみた。たしかに「八兵衛大明神」という祠がある。だが、祠の脇に立てられた由緒に「道頓堀中座に祀られていたが、閉館に伴いお遷(うつ)し申し上げた」と明記されているから、行方が分からなくなっている祠ではないようだ。

昭和末期といえば、平成の初めにかけてバブル景気の頃。神がかり的な事件が起こりそうにない時代に思えるが、祠がまるごと行方不明になるというのは、なんともミステリアスである。

■蛇の腹みたいな坂道?…口縄坂(くちなわざか)

大阪の古い言葉で、蛇(へび)のことを「口縄」とも表現する。上り口から見上げた坂の起伏が、蛇の腹のように見えるという。途中、勾配が急になる階段のあたりが、蛇の腹にあるウロコを連想させたのだろうか。

この辺りは、江戸時代には枝垂れ桜の名所だったと伝えられていて、今も桜の季節には多くの人が訪れるそうだ。

下り口には、かつて「オダサク」の愛称で親しまれ、代表作「夫婦善哉」で有名な作家・織田作之助の文学碑がある。戦後に活躍した大阪出身の小説家で、33歳の若さでこの世を去った。文学碑には、口縄坂に触れたくだりのある「木の都」の一節が刻まれている。

ちなみに、七坂それぞれに、隣接する寺院にちなんだ名がつけられているが、この口縄坂といちばん南にある逢坂(おうさか)は、形状や伝承が由来になっているようだ。

映画で有名になった1年に3度花が咲く縁結びの霊木…愛染坂(あいぜんざか)

坂の下り口にある愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)から、愛染坂と呼ばれる。

西暦593年、施薬院と多宝塔が、聖徳太子によって建てられた。戦国時代、織田信長と石山本願寺との戦いに巻き込まれて多宝塔が焼失したが、慶長2年(1597)に豊臣秀吉によって再建された。戦時中はB29による執拗な空襲に晒されたものの、奇跡的に破壊を免れ、当時の姿のまま残っている国の重要文化財だ。

もうひとつ、恋愛成就・夫婦和合の霊木である「愛染かつら」も有名で、過去に幾度となく映画のモチーフになっている。坊守(ぼうもり:住職の奥さん)の山岡静代さんによると、春には鮮やかなオレンジ色の花が咲き、いったん散ってからお盆とお彼岸の時季にも、花の数は減るけれど再び花を開くという。取材に訪れた日(9月23日)も1輪だけ咲いていた。

坂そのものは路面をコンクリート舗装した何の変哲もない坂道だが、愛染堂には一度訪れてみる価値がありそうだ。

■大阪にも「清水寺の舞台」があった…清水坂(きよみずざか)

坂に隣接する清水寺が名の由来。清水の舞台で有名な清水寺が、大阪にもあるのだ。

創建年は不明ながら京都の清水寺を模してつくられたといわれており、一時は「新清水寺」と呼ばれたこともあるという。境内へ入ってみると、鉄筋コンクリート製ながら「清水の舞台」もあって、あべのハルカスや通天閣が見える。

境内に湧き出ている「玉出の滝(たまでのたき)」は、大阪市内で唯一、天然の滝である。かつてこの界隈では随所に水が湧き出ていたと伝えられるが、今はほとんど枯れてしまっている。「玉出の滝」も、水量は少ない。

元禄元年(1694)には松尾芭蕉が訪れて〔松風の軒をめぐりて秋くれぬ〕と句を残しており、坂に隣接する大阪星光学院の敷地内に句碑が建てられている。

坂道はすべて石段になっているが、上り口からみて左側にスロープが設けられている。車いすを利用する人や自転車への配慮だろう。取材中、電動アシスト付き自転車でスイスイ上っていくご婦人がいた。

■真田幸村が最期を遂げた地…天神坂(てんじんざか)

菅原道真(天神様)を祀る安居神社に通じているので、天神坂と呼ばれる。

上り口から境内の脇にかけて設けられている水が流れる施設は、かつてこの地に湧き出ていた名水「相坂の清水」をイメージしたもの。だが、節水のためか、水が流れいるところはここ何年も見かけたことがない。

ところで安居神社といえば、戦国武将ファンならピンとくるはず。慶長20年(1615)大阪夏の陣で、徳川家康に2度も自害を決意させるほど追い詰めた真田信繁(幸村)が、最期を遂げた地として有名だ。

夏の陣で豊臣勢は、一時は優位に立ったものの、不手際が重なって敗走。信繁は傷を負い、疲労困憊して安居神社で休んでいたところを、徳川方の西尾宗次に発見され討ち取られたと伝わる。

本殿の脇には「真田幸村戦死跡之碑」があり、その根本に額装された六文銭が置かれていた。この碑の横には、境内で休んでいる姿の真田幸村像が安置されている。宮司さんに撮影許可を求めたところ「著作権は制作者にあるのだけど、連絡が取れなくなっています。後々トラブルを避けるため、撮影はご遠慮ください」とのことで、撮影は叶わなかった。

■江戸時代は馬でさえ上るのに苦労した事故多発地帯…逢坂(おうさか)

七坂のうち、最も南にある坂。口縄坂と同じく、寺院に由来した名ではない。滋賀県の逢坂山にある「逢坂関」になぞらえたとする説、聖徳太子が仏法について物部守屋と論じ合った「合法ヶ辻」が坂の下にあったことから「合坂」と書いて「おうさか」と呼ばれるようになったとする説があるものの、いずれも確証がない。

江戸時代には馬でさえ難渋するほど勾配がきつく、道幅も狭かったため、事故が多かったという。明治9年、茶臼山観音寺の住職が寄付を集めて資金を調達し、勾配を緩やかにするため坂を切り崩す工事をした。明治の末期に市電を通す際には、拡幅工事も行われた。その市電も昭和44年に廃止となり、完全に車道化されて今の姿になったのである。いまは国道25号線の一部になっていて、上りきったら四天王寺へ続く道になる。

■七坂なのに「八つ目の坂」が!?……学園坂(がくえんざか)

七坂のほかにもう1本、有名な坂がある。松屋町筋の学園坂交差点から谷町筋の六万体交差点の間を、S字カーブを描いて結ぶ「学園坂」だ。

都市計画道路として昭和12年に建設された道で、当時は沿道に大阪女子学園高等学校(現在の大阪夕陽丘学園)があったことから「学園坂」と呼ばれるようになった。

現在は松屋町側から進入する1車線の一方通行で、両サイドに歩道があるほか、進行方向の右側に自転車道が設置されている。

尚、大阪夕陽丘学園の西隣に大阪府立夕陽丘高等学校がある。校名が似ているけれど、それぞれ別の学校である。

名所旧跡を見たり伝承に思いを馳せたりしながら、七坂めぐりを楽しんでみてはいかがだろう。

(まいどなニュース特約・平藤 清刀)

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