【平成物語2】三宮本社は壊滅状態…別世界のフロアにデイリー記者はぼう然

 【平成7(1995)年1月17日 阪神・淡路大震災】

 何が起きたか分からなかった。1995年1月17日午前5時46分。マンション3階の自宅で寝ていると、一瞬、体が浮いたと思ったら、激しい揺れが襲ってきた。目の前のテレビは横に跳び、布団から起き上がろうにも起き上がれない。天井はミシミシと音を立てる。「死ぬ!!」と思ったところで、大きな揺れは治まった。

 ほんの数分だったと思うが、非常に長く感じた。当時はデイリースポーツに入社1年目で整理部所属。東京から神戸に引っ越して、中心地の三宮から近い歓楽街・福原のそばに住んでいた。

 「1面はこの地震で決まりやな」。そんなことを考えながら家の中を片付け、通常よりかなり早く、日が明るくなるのを待ってから部屋を出た。電車は動いていない。傾いた家、散乱するガラス破片、崩れた壁を見て被害の大きさを感じながら歩き、30分ほどでJR三宮駅前の本社、新聞会館に到着した。

 会館は窓ガラスが割れて、ブラインドがむき出しになっていた。既に立ち入り禁止のロープが張ってあったが、警察官に社員と告げて中に入った。薄暗い階段を上って、日が差し込む2階のデイリーフロアへ。私が一番最初だった。

 想像を絶する光景に息をのんだ。並んでいた机はぐちゃぐちゃ。ロッカーから資料があふれて散乱していた。足の踏み場を見つけることも困難だった。昨夜まで仕事をしていたフロアが別世界のように変ぼうしていた。

 ぼう然としていると、電話が鳴った。芸能担当デスクからで「どうなっとるんや?」と聞かれたが「シャレになりません」と言うのが精いっぱい。「今から向かう」と電話は切れた。その後も何本かの電話に対応した。

 午後1時過ぎ、続々と社員が到着。誰も表情は厳しい。新人は黙って立っているしかなかった。整理部は神戸にしかない。ひとまず東京にある、日経新聞の木場印刷所で紙面を作ることが決定。整理部の何人かが、着の身着のまま伊丹空港へ向かった。

 残りの人は臨時の編集局を置くことになった神戸市郊外の西神印刷工場へ。先輩の車に乗り、渋滞の道路を進むと、長田区の方角から炎と煙が上がっているのが見えた。

 翌日の紙面は東京で制作したものだ。通常の約半分12ページの新聞。モノクロの1面で謳われた『助けて』の見出しは、われわれの思いとともに被災した人々の叫びだった。

 ちょうど24年が経った。新聞会館の跡には現在、ランドマークビルのミント神戸が建ち、多くの人でにぎわっている。(デイリースポーツ・中江 寿)

関連ニュース

ライフ最新ニュース

もっとみる

    主要ニュース

    ランキング

    話題の写真ランキング

    リアルタイムランキング

    注目トピックス