神戸V 復興の歴史とトモニ、神戸讃歌誇らしく スポンサー撤退、練習は須磨海岸 初代GM・安達氏「吉田、よう頑張った」

 「明治安田生命J1、神戸2-1名古屋」(25日、ノエビアスタジアム神戸)

 神戸が名古屋を2-1で退けて勝ち点68とし、連覇を目指した2位横浜Mに4差をつけ、最終節を残してリーグ初優勝を果たした。“伝説”の初代GM・安達貞至氏(85)は「俺が生きている間に優勝は値打ちがある」と感無量だった。

 29年前、GMを引き受けた際、2年でJリーグ昇格と退路を断った。だが、クラブ始動日の1995年1月17日の阪神・淡路大震災により、全てが暗転した。

 西区の練習場はすぐ、がれき置き場になった。仮設住宅が続々と建てられサッカーどころではなかった。岡山県倉敷市の川崎製鉄が手を差し伸べ、宿舎とグラウンドを確保。同2月6日、チームはようやく初練習を行った。

 先が見えない神戸をさらに悪夢が襲う。3月、メインスポンサーのダイエーが撤退。安達氏は「51%の株をダイエーが持ち、それプラス関連会社。撤退はつぶれるに等しかった」と述懐する。

 練習前に聞いた選手は泣き出す者もいた。その時、スチュワート・バクスター監督が立ち上がった。「ヨーロッパなら突然、チームがなくなることもある。これがプロサッカー。お金集めはミスター安達に任せて、さあ泣かずに練習に行こう」

 安達氏も涙ながらに訴えた。「俺が金集めを頑張るから君たちは現場でやってくれ」。そこからは「自転車操業」だった。翌月に払う給料もなくスポンサーに頭を下げ続けた。

 練習場がなく、須磨海岸で走ったこともある。だが、励ますはずが常に励まされる日々だった。練習場の隣に仮設住宅があった。当時、主力DFだった幸田将和スカウト(54)は「ボールがボーンて(屋根の上に)飛んでいく。でも家もなくなり、大変な思いをされた方々が『頑張れ』っていつも言ってくれた。必死に頑張らないといけないという気持ちになった」と振り返る。

 安達氏は有言実行。Jリーグ昇格を見届けた際は「腰が抜けた」と放心した。2万4000人の観客が神戸ユニバー記念競技場で一体になった。目に入った「安達GMオツカレサマ」の横断幕がうれしかった。

 未練なく神戸を去った安達氏が2005年、再び危機を救う。経営難の神戸は譲渡され、04年から楽天グループ会長兼社長の三木谷浩史氏が代表を務めるクリムゾングループが運営。その“総帥”から「苦労しています。GMをやってください」と要請された。

 安達氏は「若手育成に力を注がないチームに未来はない。三木谷さんは若手育成に力を注いでくれますか?」と条件を提示。三木谷氏は「僕も経営者です。人材がどれだけ大事かは分かっています」と承諾した。

 三木谷氏とは本音でぶつかり合いながら育成の基板を築いていった。その思いが09年3月、2・3億円を投じた選手寮「三木谷ハウス」建設につながった。同ハウスではプロの栄養士を招き、体作りを徹底。MF小川慶治朗(現横浜FC)、DF岩波拓也(現浦和)らが巣立ち、今季もMF佐々木、DF山川らが主力へと成長した。

 創設29年目。悲願を果たしたのが兵庫県出身の吉田監督なのも運命だ。安達氏が神戸に招いたストライカーは引退後、途中退任した監督の後任を3度も務めた。今季は監督の勝負への覚悟を安達氏も感じ取っており、一度も会わずに見守ってきた。

 「吉田、よう頑張った。神戸に帰ってきてくれてありがとう」

 優勝を見届け、監督にやっと万感の思いを伝えることができる。

 ◆神戸讃歌 シャンソンを代表する楽曲「愛の讃歌」を基に、神戸サポーターによって歌詞を変えた形で生まれた。2005年から歌い継がれ、選手入場と勝利したときに歌われる。

 ◆安達貞至(あだち・さだゆき)1938年4月4日、兵庫県出身。関学大から1961年、ヤンマー入りしプレー。マネジャーとしても加茂周、釜本邦茂ら加入に尽力。95年から神戸の強化部長、GM。97年から2年間、横浜FのGMを務めた。2005年5月、神戸のGMに復帰し、06年から代表取締役社長も兼任し、10年は副会長に就任。次男の安達亮氏は元選手で、監督として神戸、富山、青森を指揮した。

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