年商120億円やり手社長は元巨人投手 給料5分の1からの大逆転

 1990年代に巨人などで活躍した松谷竜二郎さん(54)は現在、建築関連会社「スチールエンジ」(本社・東京)の代表取締役社長を務める。なんと年商120億円!野球界への「恩返し」のため、来年スタートを目標に社会人野球の硬式チームを立ち上げる計画もあるという。

  ◇  ◇

 大阪・淀屋橋の事務所。松谷さんはビシッと決めたスーツ姿で現れた。肌つやが良く、実に若々しい。

 「じっとしていられない性格でね。日々、反省と前進の繰り返しで全然止まってない。マグロみたいなもんやね」

 39歳で社長就任。当初は社員15人、年商3億円だったが、いまや全国主要6都市に営業所を設け、同100人、同120億円とまさに“昇竜の勢い”だ。「人が人を育てる」との信念の下、人材教育にも尽力。「凡事徹底」を掲げ「限界を決めない」「言い訳しない」「怠らない」というジャイアンツプライドならぬ“SEプライド”を実践する。

 大阪市出身。市立高から大阪ガスを経て、88年ドラフト2位指名で入ったのは一度は裏切られた巨人だった。

 「高校のとき、スカウトが家にまで来て熱心に誘われたのに指名なし。だから巨人だけには入りたくなかった。しかも入ったら何じゃこりゃ、という状況でね」

 当時の巨人は斎藤、槙原、桑田の3本柱がそろい、1軍投手枠11人のうち10人が決まっているような超狭き門だった。その状況を「2ケタ勝利投手が5人いてNPBの年間最高勝率の記録をつくるような布陣。1年目は開幕1軍に入りましたが、定着するのは難しかった」と振り返る。「完封したぐらいじゃ、上からお呼びが掛からない」と2軍戦では2度の“ノーノー”を達成した。

 現役生活は91年の21試合登板がピーク。阪神大震災直後の95年開幕前に近鉄に移籍し、その後は3年で戦力外となった。

 「近鉄3年目、小林繁さん(コーチ)に期待されたんですが、右肩痛で最後はもうボロボロ。京セラドームのマウンドに立つこともなかった」

 このとき33歳。台湾球界、横浜(現DeNA)のテストも受けたが、最終的に巨人OB末次利光さんの紹介で建設会社に就職した。

 「一時はマグロ漁船にでも乗ったろ、と思いましたが、OBの紹介で辞めるわけにはいかない。34歳からの3年間が一番きつかった。年360日働きましたね」

 給料は現役時の5分の1に。不運は重なり、信頼を勝ち取ったその会社が倒産寸前になった。だが、人生ってやつは分からない。移籍し、リーダーに指名されたのが当時、休眠会社だった「スチールエンジ」だった。

 「ここまで失敗もし、成功もして来た。ジャイアンツで学んだのは基本の大切さ。野球に育ててもらったので(選手の)セカンドキャリアを手助けし、元選手でもできるんだ、というのを実証したい」

 そのために温めているプランが社会人野球チームの創設だ。

 「運営費、球場、選手のリクルートなど課題はありますが、2020年までにはスタートしたい。大切なのは継続すること。その意味でも会社を、この先ずっと続けていかなくちゃいけない」

 54歳の豪腕。人生のマウンドで竜は舞い続ける。(デイリースポーツ特約記者・山本智行)

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