パンツ30枚買って来い!研修医時代の厳しい日々が「心」を育てる

 「町医者の独り言・第8回」

 「パンツ30枚買ってきて!」

 医師になって、先輩医師から言われた初めての衝撃的な言葉でした。なぜ?パンツ30枚?厳しい病院であることを理解はしていましたが、ここまで帰宅できないとは…。

 話を少し戻しましょう。私が三井記念病院(東京)を受験することにしたのは、我が大阪医科大学出身の須磨久善先生が特別講義に来られたからです。須磨先生は世界で初めて、右胃大網動脈を心臓の冠動脈につなぎ、難しいバイパス手術をいとも簡単に成功させてこられた先生です。そのほかにも拍動している心臓を止めずに手術をしたり、バチスタ手術(拡張型心筋症の治療は以前は心臓移植しか方法がなかったのですが、その病を移植なしに治療する手術)を日本に最初に導入されたりと功績を挙げればきりのない、スーパードクターなのです。

 「医龍」などドラマの主人公のモデルにもなられていますし、監修もされています。残念ながら私が三井記念病院に就職したときには外国におられ、手術は一度しか見たことはありませんが、髪の毛よりも細い糸を駆使して皮膚を縫うように、そして皮膚を縫合するよりも早く、正確に、美しく1ミリ以下の血管を縫うさまは表現の仕様がありません。その素晴らしい手術を拝見して、私は心臓外科医になることを諦めてしまったくらいです。天才が努力をしてようやく初めて踏み入れていい領域のような印象がありました。

 学生も参加できる懇親会で須磨先生の近くに同席させて頂き、どうすれば先生の下で研修ができるのですか?と聞いたことを昨日のように覚えています。須磨先生は「そんなの簡単だよ。試験を受けて通ればいいんだよ!」と…。当時の成績でエリート集団が集まる三井記念病院に合格するなんて、私の周囲では誰も想像できませんでした。諦めるか…悩みました。それから、2年近くが経ち、友人と進路の話をしていて、私が三井記念病院を受験するという話をすると「絶対に無理やで。カンファレンスは英語やし、お前の学力では無理や!大阪の恥をさらしに行くだけや!」と散々なアドバイスを受けましたが、東京見物もかねて受験しました。何故、私が合格したかは今でも母校の七不思議のひとつに取り上げられています。(合格させて頂きました先生に深謝です)

 そこで尊敬している先輩に言われた言葉が「パンツ30枚買ってこい!」でした。思わず「なんでやねん!」と突っ込みそうになりましたが、すぐさま近くのディスカウントストアに走り、大量購入しました。1カ月に1回しか帰宅できないなんて、疑問に思っていましたが、現実のものとなりました。着衣は手術着を着ていたので、パンツのみを変えれば1か月生活できるのです。手術室のシャワーを浴び、外来のベッドかストレッチャーで寝るのが常でした。

 朝5時に起床して採血をし、夜中は2、3時ぐらいまで仕事をする。時には寝られないことも。そんな日が続いたことがあります。私は三井記念病院の中でも劣等生でしたから、みんなの2~3倍仕事に時間が掛かっていたように思います。慣れてくると週に一度は帰宅できるようになり、それでもいつも最後の帰宅でした。日曜日の午後9時には帰宅したいとの本能からでしょうか、気がつけば誰もいない医局に一人ポツンといるときには、何故か必ず「演歌の花道」が流れていて切ない気持ちになっていました。

 深夜に帰宅することは日常茶飯事で、変質者と間違えられ、警察官に止められることも何度か経験しました。病院の中に入ったのはその1カ月ほど前ですから、季節にそぐわない格好をして夜中に疲労困憊した表情でビル街を自転車で走っていただけなんですけどね。良識ある優秀な先輩でも、土曜日の昼に、店頭にならんでいる焼酎の瓶に追いかけられる幻覚に襲われたことがあるくらい厳しい生活でした。

 現在の三井記念病院は、私がいた時ほど厳しくはないようです。もちろん厳しくすることだけが研修ではありませんが、やはり心なくしての医療はあり得ません。患者さんにとことん向き合い続けることにより、医療技術の獲得だけではなく、もっと大切な「心」を教えて頂きました。医療は日進月歩。私が受験したときりよりも、母校に入るのは難しくなり、国家試験のレベルなども難解になっていることは必至ですが、「心」を持った医師が果たして今の研修医制度で育つのでしょうか?少し心配しています。

 9時から5時で帰宅させないといけない!?臍(へそ)で茶がわきそうです。以前ある大臣様が医師には非常識な人間が多いと言われましたが、その通りかもしれません。常識だけで乗り越えられるほど医療は甘くありません。ある意味“超ブラック企業”でいいのではとも思っています。それだけの責任があるのですから。今の制度だと、砂漠が水を吸収するように様々なことを吸収できる卒業直後の大切な数年間を無駄にしているように思えて仕方がないのです。

 ここ何年かは、お盆になり、日常が少し落ち着いているこの時期、なぜかそんなことを考えてしまいます。初心を思い起こし、人間力が落ちないように気を引き締めて、医師、人として生活をしていきたいものです。

 ◆筆者プロフィール

 谷光利昭(たにみつ・としあき)たにみつ内科院長。1969年、大阪府生まれ。93年大阪医科大卒、外科医として三井記念病院、栃木県立がんセンターなどで勤務。06年に兵庫県伊丹市で「たにみつ内科」を開院。地域のホームドクターとして奮闘中。

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