【野球】トレード通告時の寂しい気持ちから一転「野球人生が豊かになった」野村監督との再会、広がった人脈 宮出隆自さんの回想
投手、野手として17年間の現役生活を送った宮出隆自さん(48)は、プロ14年目となる2009年の開幕前にヤクルトから楽天へトレード移籍した。ファミリー的な雰囲気のあるヤクルトでプロ野球選手として過ごしてきた宮出さんにとって、トレード通告は衝撃的な出来事だった。だが、違う球団でプレーする機会を与えられたことは「野球人生が豊かになった」と言うほど得がたい経験になった。移籍先ではプロ入団時の監督である野村克也氏が待っていた。
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トレード通告を受けたのは、32歳になるシーズンの開幕前。高田繁監督の2年目だった。
「僕も中堅からベテランに足を踏み入れるぐらいの年齢になっていて、使ってもらう機会も減っていたんです。やはり若手を起用しますからね。ただ、ヤクルトには13年いたんで、寂しい気持ちが強かったですね」
2009年3月23日。楽天のドラフト1期生だった自由枠右腕の一場靖弘投手と、宮出さんの交換トレード成立が両球団から発表された。先発投手が必要なヤクルトと、右の外野手が必要な楽天の思惑が一致してのトレードだった。
「必要とされて行くわけですからね。開き直りました。野村さんをはじめ、顔なじみの首脳陣もいましたし」
宇和島東高からドラフト2位でヤクルト入りした際の監督である野村氏。入団後にノムさんのミーティングを初めて受けた時の衝撃は今も鮮明だという。その指揮官と11年ぶりに同じユニホームを着ることは感慨深くもあった。ヤクルトOBの橋上秀樹ヘッドコーチ(現巨人監督代行)、池山隆寛打撃コーチ(現ヤクルト監督)の存在も心強かった。
宮出さんは開幕2戦目、4月4日の日本ハム戦に「8番・右翼」で起用されると、移籍後の初安打初打点を記録して、球団初の開幕連勝に貢献。7月14日の西武戦では同点の九回2死二塁から代打で登場し、三井浩二投手のシュートを右翼ポール際へ。移籍後初、2年ぶりのホームランは勝ち越し弾となり、楽天で初めてのヒーローインタビューも受けた。
「試合前にノムさんが、取材陣に“宮出は全然打たねえ”とか言ってたらしいんですけど、試合後に“撤回します”って言ってくれてよかったです」
ノムさんの十八番だったボヤキを一蹴した殊勲弾を懐かしそうに振り返った。
球団創設5年目を迎えていたチームには、先輩から後輩まで個性豊かなメンバーがそろっていた。
「あのころ一緒にやってたのは山崎武司さん、中村紀さん、礒部(公一)さん、草野(大輔)さん、渡辺(直人)さん、鉄平、平石(洋介)…。チームメートになってプライベートでも仲良くなった」
移籍したからこそ世界は広がった。
「トレードで何が一番いいかと言ったら、いろんな人に出会える。人脈が広がるんです。選手ってある程度の年齢までしかできないけど、野球界に残った時、やっぱりこういう人材が指導者としてまわっている。顔見知りがいっぱいいる環境は素晴らしいじゃないですか」
楽天在籍の2年間、仙台でホテル住まいをしながら新たにできた仲間とプレーした日々は、大きな財産になったという。
「違う球団のシステムや雇用形態も見ることができるし、いろんな人の野球理論やコーチングにも触れられる。よそを見ないと分からないところがいっぱいあった。だから、全てにおいてプラスになった。野球人生が豊かになったんです」
どこかマイナスなイメージを持たれがちなトレード。宮出さん自身も通達された時は、そんな気持ちを抱いたが、実際に行ってみると正反対の思いを持つに至った。引退後、コーチに就任した宮出さんは、トレードで送り出す選手たちに自身の経験を伝えるようになった。
「僕がコーチをしてる間にも何人か、トレードになる選手を見てきました。今、すごい複雑な気持ちでイヤだと思うけど、トレードって素晴らしいから。おまえが野球をやめる時には、違うチームに行って本当によかったってたぶん思うはずだから、一生懸命やれよって言ってましたね」
楽天では2シーズンを過ごした。野村監督はその年限りで退任し、翌年はブラウン監督が就任。宮出さんはその年の秋季キャンプにも参加したが、星野新監督を迎えるタイミングで戦力外を告げられる。33歳のベテランは厳しい状況に置かれたが、野球の道は続いていった。
(デイリースポーツ・若林みどり)
宮出隆自(みやで・りゅうじ)1977年8月18日生まれ。愛媛県出身。宇和島東高から95年度のドラフト2位で投手としてヤクルトに入団。2002年から野手に転向。06年に規定打席に到達し、打率・275、9本塁打、59打点をマーク。09年から楽天で2年間プレーしてヤクルトに復帰。投手では49試合で6勝5敗、防御率4・73。通算701試合出場で458安打、216打点、39本塁打、打率・277。引退後はヤクルトの1、2軍の打撃コーチなどを務め、21年は1軍ヘッドコーチとしてリーグ優勝、日本一に貢献。
