【野球】クロスプレーで負った大けが シーズンを棒に振った元カープ西山さんが大野豊さんの引退試合に強行出場した理由
1990年代の広島を正捕手として支えた西山秀二さん(58)は、98年の試合出場数がわずか13試合にとどまっている。開幕から12試合目の横浜戦で左手を3カ所骨折する大けがを負ったことが原因だった。シーズン中の復帰は厳しい状況だったが、9月27日に1試合だけ強行出場を果たしている。「最後やから、どうしても出たかった」。西山さんを駆り立てたのは広島のレジェンド左腕・大野豊投手だった。
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好調に滑り出した98年シーズンに、突如として暗雲が垂れこめた。
広島市民球場で行われた4月16日の横浜戦。八回二死一、二塁。右前打で本塁に突入してきた二塁走者の駒田徳広選手と激しく交錯した西山さんは左手を負傷。救急車で病院へと搬送され、そのまま入院。精密検査の結果、尺骨など3カ所の骨折が判明した。
「ほんとに偶然、正面衝突みたいになって粉砕骨折した。不可抗力やからどうしようもなかった。あの当時はもう当たり前のプレーだったし」
今も左手甲から手首にかけてくっきりと残る縫い跡に目をやりながら、西山さんは大けがを負ったプレーを振り返った。
かつて暴走気味に本塁突入してきたヤクルト池山隆寛選手(現監督)を殴って退場処分になったことがあったものの、本塁上でのクロスプレーは捕手の宿命として受け入れていた。
この年は開幕から打撃も好調で、すでに2本塁打も記録していたが、長期離脱は避けられない厳しい状況となった。
翌日には手術を受け、前半戦での復帰絶望が伝えられたが、実際はシーズンを棒に振ることになる重傷だった。
そんなシーズン中に、西山さんを奮い立たせたのは、この年の開幕投手を史上最年長の42歳で務めたベテラン左腕、大野投手が22年の現役生活を終える決意を固めたことだった。
「最後、大野さんの引退試合は何としても出たかった。だから、まだ(手術した)左手にプレートが入ったままだったんですけど、復帰させてもらったんです」
もちろん、頼みこんでスンナリとOKが出るはずもない。プレーできることを証明する必要があった。
「2軍でやれるというのを見せないと1軍には上げられないと言われて。1試合出たんじゃないかな。まだ左手は痛かったけど、1打席立ってショートライナーを打って。それでいけるっていうことで登録してもらった」
9月21日に5カ月ぶりに1軍に合流した西山さんに三村敏之監督は「大野の引退試合には間に合うでしょう」と女房役を務めることを認めてくれた。引退試合の前日の横浜戦で、出場選手登録された西山さんは、2番手の高橋建投手とバッテリーを組んで“試運転”を済ませ、同27日の大野投手の現役最後の登板に臨んだ。
2点リードの八回が大野-西山バッテリーの出番だった。打席には代打の中根仁選手。カウント2-2から大野投手が投じた速球は146キロを計測した。フルカウントとなり、最後は143キロ直球で空振り三振に仕留めた。
捕球時に力を入れられない不安を抱えての復帰だったが、尊敬する大投手の女房役をやり遂げた。「大野さんが一人だけに投げるのを受けて、自分も交代しました。そのまま登録抹消になって、またすぐ手術を受けたんです」
なぜ、無理を押してまで出場することにこだわったのか。西山さんの答えは明快だった。
「大野さんの最後やから、世話になったから。やっぱりどうしても出たいというのがあったから」
西山さんは初めて大野投手とバッテリーを組んだころを懐かしんだ。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇西山秀二(にしやま・しゅうじ)1967年7月7日生まれ。大阪府出身。上宮高から1985年のドラフト4位で南海に入団。87年のシーズン途中で広島にトレード移籍。93年に正捕手となり94、96年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。広島の捕手として初めて規定打席に到達して打率3割をマーク。2005年に巨人に移籍し、その年に引退。プロ在籍20年で通算1216試合、打率・242、50本塁打、36盗塁。巨人、中日でバッテリーコーチを務めた。





