【野球】「すぐに戻って来てくれ」球団からの電話でハワイから緊急帰国した小俣さん 長嶋監督の専属広報に就任 指名の理由は…

 広島、巨人、ロッテ、日本ハムで13年の現役生活を送った小俣進さん(74)は、長嶋茂雄さんが2度目に巨人監督に就任した1993年シーズンから専属広報を務めた。第一次政権時代には広島からトレード移籍し、貴重な左腕として77年の優勝に貢献。引退後、古巣の巨人に打撃投手として復帰していたが、突然の指名によって今度は広報として長嶋監督を支えていくことに。嵐のような日々が始まった。

  ◇  ◇

 寝耳に水の知らせを小俣さんは滞在先のハワイで受けた。

 「いきなり球団から電話があって、長嶋さんの専属広報に決まったから、すぐに戻ってきてくれって言われたんです」

 92年12月。当時、巨人の打撃投手を務めていた小俣さんは、プロ入り前に所属していた大昭和製紙の先輩であり、巨人でも共にプレーした加藤初さんに声をかけられ、加藤さんのハワイの別荘で若手投手の宮本和知選手や橋本清選手らの自主トレを手伝っていた。

 翌年も打撃投手として働く契約を済ませていただけに、突然の連絡に戸惑うばかりだった。

 急きょ帰国して球団に直行、正式な通達を受けると「何をやっていいんだか分からないまま」専属広報としての日々が始まった。監督に就任のあいさつをすると「おー」と返事があった。

 頼みの綱は、小俣さんより1年前に広報に就任し、その後長くコンビを組むことになる元巨人投手の香坂英典さんだった。

 「広報ってどういう仕事をするのか香坂にいろいろ聞いてね。マスコミの幹事社の人たちにもどういうことが必要か、どうしたらいいのか、聞きながらだった」

 監督復帰した長嶋さんが熱血指導を繰り広げた11月の宮崎秋季キャンプ時点では、フィーバーぶりを横目に眺めていた。

 「宮崎は相当な盛り上がりだったから、大変だなあと思いながら見ていた」

 打撃投手仲間とともに長嶋監督を囲んで記念に撮影した写真は今も手元にある。それから数カ月後にとてつもない喧騒の中に自分が身を置くことになろうとは思いもしなかった。

 重責を担う専属広報に小俣さんが選ばれた理由は何だったのだろうか。

 「監督が指名してくれたんだろうけど、わからない。聞く暇もなかったから」

 長嶋さんがユニホームを脱いでいた期間中に、ジャイアンツ球場で一度だけ再会したことはあったが「テレビの仕事か何かでやって来た監督に“ユニホームを着てください。現場に戻ってくださいよ”って言ったらニタッと笑って、そのまま行っちゃったからね」

 自分が指名された理由を直接、長嶋さんに尋ねることもないまま、慌ただしく月日は流れていったという。

 球界のスーパースターである長嶋さんの監督としての姿勢、立ち居振る舞いから、広報という仕事を理解することも多かった。

 「長嶋さんが広報部長みたいな存在だった。いろいろ教えてもらった。マスコミの向こう側には何千、何万の野球ファンの方がいるんだから、取材もどんどん受け入れろって。みんなが期待してるんだから、断る必要はないからって。“ノー”はなかった。悪いことを書いている週刊誌でも“オッケー、オッケー”だった」

 ウエルカムな姿勢を貫いた背景には91年に設立され、93年5月にスタートした日本プロサッカーリーグ「Jリーグ」の存在があったという。

 「あのころはJリーグの記事が多かったから、野球の記事を増やす使命感があったんだと思う。そうやって書いてもらうことが長嶋さんには必要だった」

 野球を何としても盛り上げる。小俣さんは長嶋監督の強い危機感と使命感を受け止めていた。(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇小俣進(おまた・すすむ)1951年8月18日生まれ。神奈川県出身。藤沢商(現藤沢翔陵)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て72年度のドラフト5位で広島に入団。巨人で貴重な左の中継ぎとして活躍した。ロッテ時代に初完投初完封勝利をマーク。現役最終年は日本ハムに在籍。プロ通算13年で174試合に登板16勝18敗2セーブ、防御率4・73。引退後はロッテ、巨人の打撃投手を経て、長嶋茂雄監督の専属広報、終身名誉監督付き総務部主任などを務めた。

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