【野球】同期にはのちの監督や名球会打者 故・津田さんとのキャッチボールなど広島での思い出を料理人になった山口さん語る

広島、日本ハムに在籍した元プロ野球選手で現在は「京料理 九花」店主の山口晋さん
入団発表の席でポーズをとる(後列左から)秋村謙宏、山口晋、前間卓、佐々岡真司、仁平馨、前田智徳、浅井樹。(前列左から)松田耕平オーナー、山本浩二監督=1989年12月24日
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 広島、日本ハムで7年間、投手としてプロ野球生活を送りながら一度も1軍登板のなかった山口晋さん(54)は今、故郷の静岡・浜松市で「京料理 九花(きゅうか)」の店主として腕を振るっている。遠い記憶をたどりながら広島時代の思い出を語った。

 山口さんは広島から1989年度ドラフト5位指名を受けた。「3年後にエース」と期待されながら故障もあり、92年オフに3年で戦力外通告を受けた。日本ハムの入団テストを受けたもののプロ7年で1軍登板なしに終わった。

 同期入団はドラフト1位で引退後は監督も務めた佐々岡真司投手。同4位は通算2119安打を放ち名球会入りした前田智徳外野手、同6位にはスーパーサブとして活躍した浅井樹外野手がいた。

 事件?が起きたのは、新人選手が初めて顔合わせをする新入団会見前夜だった。とんでもない失態を犯した。

 入団会見前日に広島にやってきた山口さんは、同じ高校出のドラフト2位・仁平馨外野手と外出することになった。同級生の浅井外野手を誘おうと声をかけたのが、なんと社会人出身で年上の佐々岡投手だった。

 「浅井がごつくて社会人と思っていた。佐々岡さんはニキビがあって高校生に見えた」

 ニキビ顔の浅井外野手と思っていた人が佐々岡投手と判明。タメ口で話しても怒られることなく楽しい夜を過ごした。

 「やっちまったという感じですが、佐々岡さんが優しかった」

 今では笑い話である。その後は1、2軍で交わることは少なかったが、合宿所近くのラーメン店でごちそうになったこともある。

 プロで初めてキャッチボールをしたのは、93年に脳腫瘍のため32歳の若さで亡くなった津田恒実投手だった。同じ速球派として「うわっと思いましたね。びっくりしました」と剛球に強烈な印象を受けたという。

 89年には「炎のストッパー」と呼ばれ、12勝5敗28セーブで最優秀救援投手賞を獲得した。そんな津田投手も90年は春先に右肩を痛めた。新人の山口さんも腰痛で「いつも一緒でした」とリハビリ組でペアを組んでいた。

 午前中は大野室内練習場でトレーニングをして午後からは津田投手の車でプールに行ってリハビリをするという日々が続いた。

 「連れて行ってくれるんですけど、僕をいつも置いて帰るんです。一緒に行っているのを忘れているみたいで。僕は歩いて帰ったり、寮に電話してグラウンドキーパーの人に迎えに来てもらったりしていました。次の日に言うと『ゴメン、ゴメン。おまえも一緒に行っとったんか』みたいに言うんです」

 巨人・長嶋茂雄さんが現役時代に息子の一茂さんを球場に残して帰ったというエピソードは有名だが、「炎のストッパー」もおもしろい話を残している。

 同期の話に戻すと高校生外野手3人の仲について「浅井と仁平が仲がよかったのかな。前田は一人でいることが多かった」という。そして「僕は投手組なので見ていないけど、浅井と前田が取っ組み合いのけんかしたことも聞きました」と懐かしそうに話した。

 そんな2人も2006年の浅井外野手の引退試合では涙の抱擁をかわした。山口さんは「浅井は苦労して頑張りましたから」とドラフト6位からの努力を称賛した。

 前田外野手については「寮で隣だったんですが、物音ひとつしないんです。いつも何しているのかなと思ってました」と不思議に思っていた。

 そんな同級生に驚いたのは「オフ明けに会って握手したときに腕が太くなっていてパワーアップしているのに驚きました」と活躍を確信したようだ。

 数年前に山口さんのお店に広島・松本奉文スカウトが訪れたときに、松本スカウトが前田さんに電話を入れ「久しぶりに話をしました」と旧交を温めたという。

 わずか3年で広島を離れたが、若かりし日の思い出は今も大きな財産だ。

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