【野球】「3年後にエース」の期待も広島、日本ハム7年で1軍登板なし 紆余曲折も故郷で料理店経営の山口さん 野球で培った観察眼で一人前に

 広島、日本ハムに在籍した元プロ野球選手で、、現在は「京料理 九花」の店主・山口晋さん
入団発表の席でポーズをとる(後列左から)秋村謙宏、山口晋、前間卓、佐々岡真司、仁平馨、前田智徳、浅井樹。(前列左から)松田耕平オーナー、山本浩二監督=1989年12月24日
2枚

 広島、日本ハムで7年間、投手としてプロ野球生活を送りながら一度も1軍登板のなかった山口晋さん(54)は今、故郷の静岡・浜松市で「京料理 九花(きゅうか)」の店主として腕を振るっている。野球界で花を咲かすことはできなかったが、料理界で苦労を重ね評判のお店を切り盛りする。

 朝から忙しい毎日を送っている。自分の店を持って9年目を迎えた山口さんは、調理場で自慢の料理を作っている。弁当と昼夜のコースはいずれも予約制。「お客さん、お一人ずつに丁寧にちゃんと対応したいんです」と、強いこだわりがある。

 「例えばお客さんが20人入っていてもお客さんの前に出る料理は一品なんです。20人いようが、お客さんは一人ずつなんですね。『お客さんの気持ちになって用意しろ』って修行時代から親方に口酸っぱく言われました。だから、このスタイル(予約制)は崩していないですね」

 夜のコース料理は1万円から。浜松では決して安くはない。それでも山口さんの料理を求め、予約が絶えない。

 1989年度ドラフト5位で静岡・島田商から投手として入団した。下位指名ながら1年目のキャンプで2軍の練習を視察した山本浩二監督が「3年後にエースになれる」と太鼓判を押したと言われていた。速球派右腕に同郷の池谷公二郎投手コーチらも大きな期待を寄せた。

 高校2年で直球のMAXは148キロ。150キロが当たり前の現在とは違い、当時は140キロ投げればプロ候補と言われる時代。「高校時代は思い切り投げていなかった」というからポテンシャルはどれほど高かったか想像できる。

 それがプロ生活で「練習もきつかったし、上下関係も厳しかった。(高校時代は)自分が好きなようにやってきたのが、投げ方はこうとか言われたり、いろんなことが変わっていって、子供すぎて受け入れられなかった」と回顧した。

 1年目のキャンプでの期待とは裏腹に腰痛などの故障もあり「ちょっと楽な方。楽な方に逃げて。今思えばガキだったんですね。それで結局、結果がでなかったんです」と、3年で戦力外通告を受けた。

 次なる進路は入団時にコーチだった新美敏コーチが在籍し、ドラフト前に大沢啓二監督から「指名するから」と言われていた縁もあり日本ハムのテストを受け、入団にこぎつけた。移籍1年目に2軍戦でフル回転。同2年目の94年には開幕一週間前まで1軍に帯同したが、桜は咲かなかった。

 日本ハムで広島を上回る4年在籍したが、1軍に上がることはできなかった。ただ、1軍昇格はなくても7年もプロ野球の世界に身を置いたのは、きっかけさえつかめばブレークの可能性があったといえる。

 日本ハム退団後は子どものころからあこがれていたすし職人になるために大阪のすし店に修行に入った。

 「母方のおじが島田ですし店を営んでいたんです。おいしいすしを食べてきたんであこがれていました。もともと中学を出て修行にしようと思っていたんですが、野球の方に行ってしまって」

 第二の人生に迷いはなかった。しかし、結果は出なかったもののプロ野球という華やかな世界を見た山口さんは、子どものころの純粋さはなかった。

 「2軍選手でも野球選手だからチヤホヤされていた。それが抜けずに偉そうな態度をとっていたんでしょうね」

 人間関係がうまくいかず1年で大阪のすし店を辞めた。東京に出て築地でアルバイトをしながら修行先を探した。いくつかの候補から最後は麻布の京料理店へ再就職した。

 覚悟の再就職だった。

 「野球の悔しさもあったし、見返したいという気持ちがあった。これが最後と思って」

 心を入れ替えての修行。ここで野球が生きた。

 「料理の世界は見て盗むっていうか、空気を察するとか、親方のリズムとか。ピッチャーって投げながら、バッターの空気感とか動きとか相手ベンチとか全部観察するじゃないですか。そういうのが生きました。次は何を用意しなきゃいけないって言われなくても、準備ができた。あとは記憶力ですよね。親方がレシピを教えてくれるわけではない。料理を作っている時、調味料の配分とか記憶しておくんです。自分が投げた配球を覚えているのと同じですね」

 野球で培った観察眼や記憶力が、料理の世界で役にたったのだ。東京での修行は想像を絶していた。技術を身に付けると比例して仕事量も増えた。10年を一区切りに故郷へ帰ることにした。

 浜松では雇われ店長として10年働いた。そして2017年に念願だった自分の店を開店させた。現役時代に常務取締役だった広島の松田元オーナーからもお祝いの花が届いた。

 独立後は「自分でやるのは大変でした」と苦労の連続だった。それでも「少しずつお客さまが来てくれるようになったんです」と波に乗りかけた矢先に新型コロナウイルス騒動が勃発。店内の飲食はストップし、テイクアウトだけとなった。

 挫折しそうになったとき「たくさんの仲間やお客さまに助けてもらったので、なんとか続けていこうと今の場所に移転しました」と、現在は3部屋完全個室で昼夜のコースと弁当の完全予約制の店を夫人と息子の3人で切り盛りする。

 レパートリーが豊富な鉄釜で炊く釜飯も名物のひとつ。「頼まれたら」とおすしも握る。味に絶対の自信を持ち、達筆な字でメニュー表も書く。地に足をつけて店を経営する。

 今後について「夢はないですね」と苦笑いしながら「趣味もあまりないんで、一日中お店にいる感じです」という。紆余(うよ)曲折はあったものの、子どものころのあこがれだった料理と向き合う毎日を送っている。

関連ニュース

編集者のオススメ記事

インサイド最新ニュース

もっとみる

    主要ニュース

    ランキング

    話題の写真ランキング

    写真

    リアルタイムランキング

    注目トピックス