【野球】「あんな強いチーム、試合に出られるわけねえ」巨人のドラフト1指名に困惑した過去 「できたら南海が…」V9戦士高田繁さんの告白
運命の、と形容されるプロ野球選手のドラフト会議。希望をかなえる選手もいれば、予想もしていなかった指名を受ける選手もいる。巨人のV9戦士で日本ハム、ヤクルト監督を歴任し、DeNAでGMを務めた高田繁さん(79)は後者だった。明大キャプテンにして六大学のスター選手だった高田さんは、ドラフト前にあいさつのあった南海に「指名してくれたら行きます」と伝えていた。だが自身を1位で指名したのは3連覇中の巨人だった。
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意中の球団ではなかった。
「あちゃ~、えらい所に当たったなあっていうのが正直な気持ち。巨人に行っても、試合なんか出られるわけねえじゃねえか。あんな強いチーム、あんなに人がそろってるところ」
1967年のドラフト会議。巨人から1位指名を受けた時の心境を高田さんはこう述懐した。
浪商卒業時に一時は入団の決意を固めていた南海から、指名の可能性があるとの連絡を受け、応じるつもりでいた。
「あの頃のドラフトは12球団がくじを引いて、指名する順番を決める。南海からは、指名順が1~5(番目)辺りでなければ、(自分を)1位で指名すると言われていた。順番が早ければピッチャーを指名する、ということだった。そしたら南海は“いの一番”。その時点で、あっ、もう(指名は)ないわって」
抽選で1番目となった南海は、慶大の藤原真投手を指名(入団拒否で鐘紡入り)。2番目の西鉄、3番目の阪神…と投手への指名が続いた。そして、7番目の巨人が指名したのが高田さんだった。
川上哲治監督率いる巨人は王貞治さん、長嶋茂雄さんを打線の核に据え3連覇を遂げていた。
「高倉(照幸)さんがレフトにいて、センターに柴田(勲)さん、ライト国松(彰)さん、その他にもいっぱい選手がいて。だから、巨人より、できたら南海がいいなって。高校時代の時のこともあったしね。プロに入って試合に出て活躍したいのが一番だった。巨人以外に入団するのはイヤだって言う人もいるけど、むしろ巨人よりも、他の球団の方がチャンスがあるから」
ただ、指名された以上は腹をくくるしかなかった。
「もう、そこしか行けないから。プロだから、切り替えて」
目標としてきたプロの門をたたいた。
「守備と足には自信があったし、プロでも絶対やれるとは思っていた。あとはバッティング。投手が全然違うから不安はあったけど。守備固めでも代走でも、なんとか25人の1軍メンバーに入りたい、食らいつきたいと思ってた。まさかレギュラーなんて考えつきもしなかった」
まさかは、現実となる。1968年4月の開幕戦。高田さんは守備から途中出場し、巡ってきた初打席で大洋の平松政次投手から中前にヒットを運んだ。勝負強さを発揮したルーキーは翌日、中堅でスタメン起用された。
「完全にレギュラーになったのは6月くらいからやね。でも、ずっと1軍にいて結構使ってもらった。夏過ぎからよかったね」
規定打席には足りなかったが、120試合に出場し打率・301、23盗塁とチームの4連覇に貢献。新人王に選ばれ、阪急との日本シリーズでは打率・385をマークしMVPにも選出された。
左翼を定位置に、2年目からは完全なるレギュラーに定着した。
「投手は堀内(恒夫)とか、高橋(一三)くんとかいたけど、野手では俺が一番若かったからね。センター柴田さん、ライト国松さん、そのあと後半は末次さんやったけどな。長嶋さん(三塁)、黒江さん(透修=遊撃)、土井さん(正三=二塁)、王さん(一塁)、森さん(晶彦=捕手)。僕が入って(メンバーが)固まった。V4、V5、V6ぐらいの戦力が一番。もう、圧倒的やったな、ONも全盛だったし、他の選手もよかったし。負ける気が全然しなかったよね」
巨人の黄金期を彩ったメンバーの名前を一人ずつ挙げる高田さんの表情は自信に満ちあふれていた。川上巨人の連覇はここからさらにV9まで続いていった。
(デイリースポーツ・若林みどり)
高田 繁(たかだ・しげる)1945年7月24日生まれ、79歳。大阪府出身。右投げ右打ち。外野手、三塁手。浪商高から明大に進み、67年に巨人からドラフト1位で指名され入団。1年目からレギュラーとして活躍し、68年は新人王と日本シリーズMVPに選ばれた。堅守、巧打、俊足でV9に貢献、71年には盗塁王を獲得した。76年には三塁手にコンバートされた。80年に現役を引退し、85年から日本ハムの監督を務めた。退任後は巨人のヘッドコーチなどを歴任、05年に日本ハムのGMに就任。08年からヤクルト監督、11年からはDeNAの初代GMを務めた。





