【野球】北別府さんの最初の月命日は特別な日 31年前に20世紀最後の200勝達成
元広島東洋カープ投手の北別府学さんが亡くなって7月16日で1カ月が過ぎた。最初の月命日は、同時に1992年に球団史上初、20世紀最後の通算200勝投手となった特別な日。そんな日に通算213勝のレジェンドをしのびたい。
2020年1月に成人T細胞白血病を公表し闘病生活に入ったが、病床からデイリースポーツウェブ評論家として健筆をふるってもらった。
7月12日は、北別府さんが生きていれば66回目の誕生日。広島の自宅を訪ね、線香をあげさせてもらった。
右腕一本で築き上げた自宅は、広島の市街地が一望できる高台にある。200勝の記念グラブや背番号「20」のユニホームが飾られた一室で線香をあげさせてもらい、妻の広美さんから闘病中の様子や現役時代の思い出話を聞かせてもらった。
現役時代の話は印象深かった。
「リラックスできるのは登板日翌日くらい。あとはいつもピリピリしていました」
6月19日の葬儀・告別式で長男・大さんが「父は現役時代、全てを犠牲にして野球道にまい進していました。その一つに家族と過ごす父としての時間も含まれていました」とあいさつしたことと合致する。
31年前の7月16日、北別府さんはナゴヤ球場での中日戦に先発。8回1失点の好投で通算200勝を挙げた。この一戦を子どもたちと観戦した広美さんが「当時は学校を休むこともできず学校が終わって行ったような気がします。まあ、試合前はいつものルーティーンがあるので会えなかったでしょうし、試合が終わってもテレビ局の取材があったりで会えませんでした」と当時を振り返ってくれた。
現役時代は家族でさえ距離があった。先輩記者から北別府さんは近寄りがたい存在だったという話も聞いた。抜群の制球力で「精密機械」と呼ばれていたが、生活もきちょうめんで野球に対してのルーティーンがあり、一切の妥協を許さなかった。
それが記者泣かせの一端となり、チームメートと一線を画し「孤高のエース」とも呼ばれたゆえんだろう。全ては野球で結果を出すためのものだった。
私は記者泣かせだった現役時代の北別府さんを知らない。広島担当になった2001年にコーチとして知り合った。現役時代の話は先輩記者から聞いていたが、冗舌で先輩の話がうそのようだった。
ユニホームを脱いでからも殿堂入りパーティーや黒田博樹さんが日米通算200勝達成時の特集号などいろいろと取材をお願いしたが、気安く引き受けてくれた。
そして2018年1月、紙面企画「あの人ネクストステージ」の第1回に登場を願った。広島ホームテレビ(テレビ朝日系列)で野球解説だけでなくコメンテーターを務めるとともにSNS発進や農業プロジェクトへの参加、大学非常勤講師、海外での野球教室など多岐にわたっていた。同年の5月には英数学館の非常勤コーチにも就任した。
災害ボランティアにも参加するなど、現役時代に野球一筋で生きてきた右腕は、あらゆる分野で活躍していた。
そんな姿に19年暮れに新聞の評論ではなく、ウェブ評論家という新しい肩書で仕事を依頼すると、快く引き受けてくれた。
病気の公表に驚いたが、闘病中も電話で野球の話はもちろん病気の話、これからのことなど語ってくれた。「同じ病気の人に勇気を与えられたら」と復活を目指した。
葬儀・告別式での大さんの言葉がよみがえる。
「父を世界一尊敬していました。昔は威厳がありすぎるほど怖かった父が、こんなにも気のいい父親にもなってくれました。家族はほんとうに幸せな思いをさせてもらいました」
葬儀・告別式では、200人近い野球関係者が参列に訪れた。「孤高のエース」と呼ばれながら「同じ釜の飯を食った仲」の元選手は、北別府さんの振る舞いを理解し、引退後に北別府さんを知る選手は優しさに感謝したに違いない。
私はこの3年半で北別府さんにお会いしたのは、3回しかない。それでも電話での会話で、野球に対する思いはもちろん、家族に対する思いや病気から逃げなかった生きざまなどおおいに勉強をさせてもらった。復活を信じ、1月の電話が最後になるとは思っていなかっただけにつらい。
12日、帰り際に広美さんから「昨日、届いたんです」と、北別府アグリプロジェクトの商品「北別府学監修 広島県産採れたて玉ねぎの和風ドレッシング」を頂いた。
15日には非常勤コーチを務めていた英数学館が広島大会2回戦で勝利を挙げた。スタンドでは広美さんが北別府さんに代わって観戦していた。家族は毎晩、遺影の前で北別府さんにいろんなことを語りかけているという。
「野球人・北別府学」が残したグラウンドでの数々の栄光とともに、「人間・北別府学」が生きたあかしはずっと語り継がなければならない。(デイリースポーツ・岩本 隆)



