【スポーツ】ブルーノ・サンマルチノさん ジャイアント馬場さんと培った長く深い友情

 18日に82歳で死去した米国の伝説的なプロレスラー、“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノは、日本を代表するプロレスラーだったジャイアント馬場とは、好敵手にして親友の間柄だった。

 サンマルチノは若手時代の61年、同じく若手だった馬場の武者修行先であるニューヨーク(NY)地区で知り合い、出世を誓い合ったとされる。馬場は自伝で、笑顔を向けるサンマルチノに好感を持ったことを回想している。

 2人が再会したのは64年2月17日、世界のプロスポーツのひのき舞台であるNYのマジソン・スクエア・ガーデン。WWWF(後WWF。現WWE)ヘビー級王座に上り詰めていたサンマルチノに馬場が挑戦し、サンマルチノが防衛に成功した。両雄は出世の誓いを実現させたことになる。

 全米一の人気プロレスラーにのし上がったサンマルチノだったが、多忙なスケジュールの合間を縫って日本プロレスに来日し、エースとしてインターナショナルヘビー級王座に君臨していた馬場に何度も挑戦、名勝負を繰り広げた。馬場が日プロを退団するまでの対戦成績は、1勝1敗4分けと互角だった。

 馬場は1972年8月18日の石巻大会を最後に日プロを退団後、渡米して、自身が旗揚げする新団体「全日本プロレス」への協力をサンマルチノに求めた。サンマルチノは同年10月21日、町田市体育館で行われた旗揚げ前夜祭でテリー・ファンクと組んで馬場、サンダー杉山組と対戦。翌22日に日大講堂で行われた旗揚げ戦では馬場と新設の世界ヘビー級争覇戦を行い、またも引き分けた。

 なお、2人の会談には“黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーも同席しており、ブッチャーは全日本のエース外国人として、プロレスの枠を越えて日本で一時代を築くことになる。

 70年代後半、WWFが全日本のライバル団体である新日本プロレスと業務提携しても、サンマルチノは新日本に出場せず、馬場に筋を通した。

 1981年10月9日には蔵前国技館で全日本の創立10周年興行が行われ、本国では直前に引退していたサンマルチノが馬場と組んでタイガー・ジェット・シン、上田馬之助組と対戦。馬場との初タッグで、晴れ舞台に花を添えた。

 サンマルチノが米国から日本の馬場にキャデラックをプレゼントするなど、リングを離れても厚い友情を培った両雄。サンマルチノの息子デビッド・サンマルチノがプロレスラーになると、馬場は全日本に何度も招へいして面倒を見た。

 99年1月31日に馬場が61歳の若さで急逝すると、同年5月2日に東京ドームで開催された「ジャイアント馬場『引退』記念興行」にサンマルチノが来日。馬場、サンマルチノ、ジン・キニスキー、ザ・デストロイヤーの4人による馬場の“引退試合”が行われた。馬場とサンマルチノの“試合”も、サンマルチノの来日も、これが最後となった。(デイリースポーツ・藤澤浩之、文中敬称略)

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