手を焼いたライオン丸・シピン(中)

 年が明けて、1972年(昭和47年)を迎え、1月末にハワイで契約したボイヤーが、春季キャンプ参加のために来日した。

 そして丸ビル内にある本社で中部謙吉オーナーに会った。中部オーナーがボイヤーに、「ところで、シピンを知っているか」と尋ねたところ、「よく知っている。獲るつもりか」と言う。

 そこで経過を話すと、「あいつはパワーのあるいい選手だ。ぜひ、獲りなさい」と返してきた。

 これで球団はますます乗り気になった。しかし、その後の電話でも、シピンは一向に態度を変えなかった。春のオープン戦で、近鉄戦のため大阪へ行った際、ホテルからシピンに電話を入れた。

 シピンの様子が少し変わっていた。たぶん、パドレスから「おまえは日本の大洋ホエールズに行け」と、言われたのだろう。

 「年俸はいくら出すんだ」と聞く。普通、3A級の好選手なら、7000ドルから1万ドル当時1ドル=約300円)というところだ。

 シピンのこれまでの態度を見るに、「オレを他の3Aクラスの選手と同じに扱う気か」などと言い出しかねない。事実、あと一歩で大リーガーになれた男だ。

 そこで、相場の倍額以上の「2万5000ドル出そう」と提案したが、シピンは即座に「いやだ」と拒否した。そして続けた。「3万5000ドルなら考えてもいい」と言ってきた。

 何度か交渉が続き、結局は我々が折れ、3万5000ドルでOKとなった。私は交渉の成立をすぐパドレスに連絡し、ようやくシピン獲得が成功した。相場の3倍以上だ。

 シピンが釣り竿を片手に羽田に降り立ったのは、72年(昭和47年)3月27日の夜だった。

 翌日、オープン戦が予定されていた。ロクに練習もしてこなかったシピンを使うつもりは全くなかった。

 だが、「明日オープン戦があるそうだが、オレは出場したい」と言い出した。

 「コンディションのほうはOKか」と、聞くと、「すぐプレーできるから心配するな」と言う。

 別当薫監督に伝えると、「本人が言うならいいだろう」ということで、いきなり二塁手としてスタメンに入れた。打撃はさすがに思うようにいかなかったが、守備は大したものだった。

 練習中に一塁手の松原誠が、「スローイングが見事なのはよくわかったが、あんな速い球を投げられたらたまらん。見てくれ」と、捕球した左手の手のひらを出した。

 なんと真っ赤にハレあがっていた。捕球もうまかったが、捕ってから投げるまでが一瞬で、しかも、その送球の速さは日本選手が足もとにも及ばない。

 このシピンのおかげで、大洋内野陣の併殺が増えたのだから、まずは獲得大成功というところだった。

 それはいいのだが、いろいろ文句をつけてくるのにはホトホト困らされた。

 例えば、ユニホームだ。伸縮性のあるニット生地ではないから、ズボンをはいてもピタッと足に吸いつかない。これがスタイリストのシピンには気にくわなかった。

 それに打撃が思うようにいかないと、「このバットはオレには合わん。だから打てないのだ」とその種の文句を私に言う。

 彼のフィーリングに合うバットなど私にわからない。だが、そこは我慢して「まあ、慣れるまでそれで打て」となだめた。

 しかし、ついに「バットが合わないのは通訳であるおまえがメーカーにキチンと私の希望を伝えていないからだ」と当たってきた。

 私に当たるのはいい。しかし、打てないのはバットだけでなく、「バッティング投手が悪いからだ」と言い出した時は、なんというわがままで自分勝手なヤツだと、さすがに私も頭に血がのぼった。

 頭にきたのは私だけではなかった。シピンの態度をそれまで黙って見ていたボイヤーがとうとう怒った。

 後楽園(ドームの前身)で、ボイヤーがシピンを呼びつけ、「お前はいったい、自分をなにさまだと思っているのか。日本へ来られたのも、ウシがいろいろと努力してくれたからだ」と声を荒げてシピンを叱り飛ばした。

 驚いたのは、その時のシピンの態度だ。直立不動。まるで将校に注意を受ける一兵士のように、ビクリとも動かずボイヤーの言うことを聞いていた。

 さすがボイヤーと、あらためて感心した。同時に大リーガーがマイナーの選手たちに、どんな目で見られているかがよくわかった。

 シピンはマイナー出身の選手とはいえ、ボイヤーを上回る年俸で大洋の一員となり、バッティングならボイヤーを超えたパワーを持っている。しかも、自己主張の強い男だ。

 けれど、そのシピンすら15年間大リーガーとして活躍して名を売ったボイヤーの前で、一言の文句も言い返せないのだ。

 大洋にいる間、シピンはボイヤーのカバン持ちといった格好で常にボイヤーに従っていた。ボイヤーの人柄もあったろうが、大リーガーの風格がそうさせたのだと思う。

 しかし、シピンに「おまえが悪いから打てないのだ」とボロクソに言われた私は、あまりの悔しさに仕事をする気も失せて、1日休んでしまった。

 ボイヤーに一喝されてからのシピンは、少し態度を変えたが、わがままなところや、自身のライフスタイルを変えなかった。

 人にはそれぞれ持って生まれたものがある。シピンはそういう男なんだと、私も少しずつ理解し始めた。

 普通、外国人選手を獲得する際、記録はもちろん、家族関係から性格まで、できる限り詳しく調べる。

 シピンの場合はそんな余裕がなかった。確かに、シピンは変わったところがあった。変わっているというより、世間の権威とか常識的な道徳観をひどくバカにしているような面があった。

 パドレスのファームにいたころ、“ヒッピーみたいなヤツ”と言われたのも、そのあたりに原因がありそうだった。

 一方で、なかなか繊細な神経の持ち主で、芸術家肌の一面もあった。

 ある日、画用紙に鉛筆で何か書いている。見るとスーツのデザインだった。彼はそれを持って洋服屋へ行き、「このデザインにしてくれ」と、注文したのだ。

 サラサラと書きあげる洋服やコートのデザインを見て、この道でもメシが食えるのではないかと、素人の私などは感心したほどだ。

 事実、そのデザイン通りに仕立て上げる洋服屋も、「いいセンスを持ってますね」と、密かに舌を巻いていたくらいだ。

 そういえば、シピンはよくファッション雑誌を広げていた。外国人選手には、プラモデル作りなどの趣味の持ち主は少なくないが、ファッションデザイナーの腕を持った選手は聞いたことがない。

 自分でデザインしたスーツで身を固めたシピンはビシッと決まり、俳優でも通りそうだった。

 当然、女性にはもてた。彼が来日した際は、金持ちの家の娘さんだったマリリーさんと結婚していたのだが、その後、来日のたびに別の女性を連れてきたりした。

 様子を見ていると、マリリー夫人とはうまくいっていなかったらしい。大洋入りして2年後、別れている。=続く 

(デイリースポーツMLB解説委員・牛込惟浩)

   ◇   ◇

 牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。

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