恩師と慕われた喧嘩のボイヤー(下)

 私がこれまでアメリカでスカウトした選手は30人近い。その中で、これまで最高の守備を見せたのが、1972(昭和47年)に大洋ホエールズ(現DeNA)へ入団したクリート・ボイヤー三塁手だった。

 彼が大洋にいたとき、若い選手をグラウンドに腹ばいにさせてゴロを打ち、“視線を低くすると、いかにバウンドがはっきりと見えるか”ということを納得させたことがある。

 アメリカでは、コーチの指導法の第一として、「わかりやすい言葉で、短く話す」ことをあげる。

 いろいろな表現を使ったり、長い説明は相手の集中心を妨げるというのだ。私はボイヤーの指導とその効果を目の当たりして、これがアメリカ流なのだなと感心したものだ。

 現役時代に内野手として8年連続ゴールデングラブを受賞した大洋の山下大輔氏(当時、ベイスターズコーチ)も入団したころは、「取って握る」という送球の第一段階に時間がかかった。

 ボイヤーの助言で必死に努力した結果、リーグでもトップの守備力を持つ内野手になった。

 また、当時横浜ベイスターズの打撃コーチをしていた高木由一は、現役時代通算102本塁打を放った左の好打者だったが、入団してしばらくはさっぱり芽が出ず、一度クビにされようとした。

 それを「これは伸びる男だ」とチームに残したのもボイヤーだった。彼はいまでも「あの人は私の恩人」と語っている。

 ボイヤーの日本球界デビュー当時に戻る。キャンプの後オープン戦のために九州へ行ったが、ボイヤーが凡打で一塁へ走る姿に、「オーイ、フグ野郎」などとヤジが飛んだ。

 だからというわけではないが、グルメのボイヤーを歓迎する意味で、ある夜フグ料理屋へ連れて行った。

 コーチの青田昇さんが、「これはうまいんだ。食べてみろ」と、言った。食事に限らず、ボイヤーは日本の風俗・習慣に慣れようという気持ちが旺盛で、頭から拒否したり敬遠したりしない。

 「これはなんだ」

 「フグの刺身で、高級料理だ」

 「フグ?どんな魚だ」

 「ブロー・フィッシュ(吹く魚)」

 「なに、あのブロー・フィッシュか?毒があるではないか」

 顔をしかめるボイヤーに、青田さんが、資格を持つ一流料理人が作ったもので、毒はすべて洗い流してあるのだと解説すると、やっと箸をつけた。

 初めてフグ刺しに出会った外国人は、まず敬遠するらしい。私は「昼間のプレーを考えたら、フグなんか食ってる気分じゃないだろう」と思ったが、フグばかりか生ウニ、生ガキ、ヒレ酒までうまそうに口に入れてその夜は大満足でホテルへ引き揚げた。

 ところが、翌朝そのホテルへボイヤーを迎えに行ったところ、青い顔をしてベットに寝ている。

 「ハラが痛い」と言う。まさかとは思ったが、フグ刺し、生ウニ、生ガキをたらふく食べているから、私はあわてた。

 病院への車の中で私の頭の中で、“フグ野郎がフグに当たる”というスポーツ紙の大見出しが点滅し、調子に乗って食うからだと、腹が立った。幸い、診察の結果は、「軽い食当たり」ということでホッとした。

 2日ほど休養した後、佐賀での近鉄戦に出場させた。元気になったが、動きの方はさっぱり。「この調子で公式戦に間に合うのだろうか」と心配した。

 本人も本格的に減量に取り組んだ。打撃は相変わらずだったが、守備は体ができてくると、さすがに大リーグ屈指のサードだ。

 低い姿勢で構え、正面のゴロはキチッと片ヒザをついて捕球し、捕球してから一塁への送球の早く、正確なことは見事だった。

 そんなボイヤーも、オープン戦を重ねるうちにすっかり体も締まって、オープン戦最終戦では、逆らわず右翼席へ運んだホームラン、左へ引っ張った二塁打を打った。

 「ウシ、心配かけたが、もうOKだ」とさすがにホッとしたような顔を見せた。最初のシーズン、1972年(S47)、ボイヤーはよくやってくれた。

 しかし、6月頃の広島戦だったと思う。剛球で鳴る外木場投手の球を右手の親指に受け、ハレあがったまま翌日になっても指を動かすことができない。

 心配する私にボイヤーは、「これではもう野球はできない。せっかく呼んでもらってこんなことでは申し訳がないから、オレは辞めてアメリカへ帰るつもりだ」と言い出した。

 仰天した私は、すぐ東京の球団事務所へ電話を入れた。翌日、森茂雄代表がすっ飛んで来た。そして私に封筒を差し出し、「これをボイヤーに読んでやってくれ」と言う。手紙の内容は次のようなものであった。

 「不運に見舞われて残念である。しかし、骨折しているわけでもないし、じっくり治療すればいい。あなたはアメリカのメジャーで大活躍してきた人だ。私はあなたのプレー、人格すべてを尊敬している。たとえ、仮にプレーできなくても、そのときはコーチとして働いてほしい。そしてその知識と体験を若い人に教えてやってくれ」

 手紙を読み終わってふと見ると、ボイヤーは指で目頭を押さえていた。よほどうれしかったのだろう。「ウシ、この人は仏陀のような人だ。よくわかった。努力してやれるだけのことはやってみる」と言った。しばらくしてハレも引き、わずかに痛みが残る程度になった。

 1年目のボイヤーの成績は、99試合に出場、打率・285、19ホーマーだった。

 “助っ人”は最低30ホーマー、3割といった考え方に立てば、あるいはボイヤーは失格かもしれない。

 けれども、内野の守備の柱となり、若い山下大輔、米田慶三郎、田代富雄、高木由一らの成長に大きく貢献したこと。野球の楽しさ、難しさを教えてくれたことを思えば、よくやってくれたと思う。

 公式戦が終わると、外国人選手は帰国する。暮れの契約更改で、ボイヤーに球団はどんな条件を示すのだろうなどと考えていた。

 だが、ボイヤーは思いもかけず、白紙のままの契約書を森代表に差し出し、「適当に書き入れてもらえば結構」と言ったのである。

 シーズン半ばに右手親指を打撲したとき、森球団代表が手紙で伝えた好意と寛大さを、ボイヤーは忘れていなかった。

 これが日本人ならわかる。しかし、ボイヤーは厳しい契約社会で生き残ってきた男なのだ。『アメリカ人にもナニワ節の心がわかるのだろう』と思ったが、森代表の温かい思いやりや、ボイヤーという男への信頼の情が、彼のハートをゆさぶった、というのが、ほんとうのところだったと思う。

 確かに、彼には“親分”といったフトコロの深さがあった。彼のアパートは他球団の外国人選手がよく出入りしていた。

 名前は挙げないが、あるチームの外国人選手は、ボイヤーのアパートに来ると、必ずアメリカの自宅に長距離電話をかけた。

 それがいつのまにか20万円ほどになった。その選手はクビになって、電話代も払わずに帰国した。

 私が「けしからん男だ」と言っても、「まあ、いいじゃないか」と、一言も文句を言わずに自分で払っていた。実績もあり、しかも野球を深く理解していて指導力もある。

 こんな男ならアメリカ人であっても、日本の球界で幹部にしたい。つくづく思ったものである。(本紙MLB解説委員)

   ◇  ◇

 牛込惟浩(うしごめ・ただひろ)1936年5月26日生まれ、78歳。東京都出身。早稲田大学を経て64年、大洋ホエールズに入団。渉外担当としてボイヤー、シピン、ポンセ、ローズなど日本球界で大活躍した助っ人たちを次々と獲得し、その確かな眼力でメジャー球界から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に横浜ベイスターズを退団。現在はデイリースポーツMLB解説委員。

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