あの秀吉も震え上がった大地震 我々は歴史から何を学ぶのか!? 山本浩之アナコラム
【ヤマヒロのぴかッと金曜日】
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、本能寺の変のあと次の天下人を模索する時期に入って目が離せない。小牧・長久手の局地戦を落とした秀吉だが、家康追討の手をゆるめず10万の大軍で攻めこむ準備に入る。迎え撃つ家康の軍勢は4万強に過ぎずどう見ても勝ち目のない戦さだった。
年が明けたらいよいよ総攻撃という天正13年の暮れ、天災がその後の日本の運命を大きく変えることになる。『天正の大地震』である。東海、北陸から近畿まで未曾有の被害をもたらしたこの地震に腰を抜かした秀吉は、家康討伐の準備を投げ出し大坂に逃げ帰った。
このくだりは、磯田道史氏の近著「天災から日本史を読みなおす(中公新書)」に詳しく書かれている。復興を待ってゆっくり徳川家の息の根を止められたのに、秀吉は家康上洛の道筋を作り和睦する。その後の史実はご承知の通りだが、そのあたりの推移をドラマでどう描くのか、弟・秀長は兄の決断をどう受け入れるのか興味深いところだ。いずれにしても大地震が起きていなければ江戸幕府は誕生していなかったかもしれない。
磯田氏はこの本の中で、天正地震が福井県の若狭湾にもたらした津波についても言及している。
『原発銀座』とも呼ばれる若狭湾について旧原子力安全・保安院がまとめた2011年の報告書には「仮に天正地震による津波があったとしても三方五湖の中の『久々子湖(くぐしこ)』に海水が流入した程度の小規模のものであり影響は小さく、原発事業者が調査した結果、天正地震の津波堆積物は発見できなかった」とあるが、戦国時代の日本をつぶさに見て記録したヨーロッパ人宣教師ルイス・フロイスはこの地方の津波について「若狭の国には海に沿って大きい町があり、盛んに商売が行われていた。その地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべき唸りを発しながらその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、いっさいのものが海に飲み込まれてしまった」と生々しく書き残している。
これと同様に、津波が人家を押し流したとの記述は他の当時の資料から幾つも見受けられる。地震や津波の恐怖を後世に伝えようとする先人たちの貴重な資料だ。
それに引き換え、規制する側であるはずの原子力安全・保安院は、独立性・中立性を保つことができなかった。廃止されたのは当然のことだ。そもそも原発事業者側の調査結果など鵜呑みにはできない。
つい最近も、浜岡原発の再稼働審査をめぐるデータ改ざん問題で中部電力の会長と社長が辞任に追い込まれた。内部通報をも無視して、ひたすら早期再稼働に向けて経営トップが不適切な行為へ駆り立てていたなど言語道断である。ウソで塗り固めてでも企業の存続を優先させねばならないのか。
幾度となく天災に見舞われたこの災害列島には遺訓・遺構が数多く残されている。歴史に学び、子や孫に正しくバトンを渡すのは、今を生きるものとして最低限の責務だ。
◆山本 浩之(やまもと・ひろゆき)1962年3月16日生まれ。大阪府出身。龍谷大学法学部卒業後、関西テレビにアナウンサーとして入社。スポーツ、情報、報道番組など幅広く活躍するが、2013年に退社。その後はフリーとなり、24年4月からMBSラジオで「ヤマヒロのぴかッとモーニング」(月~金曜日・8~10時)などを担当する。趣味は家庭菜園、ギターなど。
