三笠宮さま逝去 昭和天皇の末弟、皇族では最長寿の100歳

 昭和天皇の末弟で、天皇陛下の叔父に当たる三笠宮さまが27日午前8時34分、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院で心不全のため亡くなられた。名前は崇仁(たかひと)。信頼できる記録上、皇族では最長寿の100歳だった。5月16日、急性肺炎で入院。症状は治まったが、高齢に伴う心臓の働きの低下で入院を続けていた。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は11月4日午前10時から東京都文京区の豊島岡墓地で営む。妻の百合子さまが喪主を務める。

 「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴とののしられた世の中を、私は経験してきた」。陸軍軍人として直面した「聖戦」の実像を記し、古代オリエント研究に没頭した三笠宮さまの100歳の生涯は、偽りのない歴史と平和への思いに貫かれていた。

 1943年1月、中国・南京の総司令部に赴任。軍部への批判的な姿勢は戦中から。南京での講話で満州事変を「現地軍の独断」とし「現在日本人、特に軍人に欠如しているものは『内省』と『謙譲』」と断じた。陸軍の横暴を批判する文書は危険文書として当局に破棄されたが戦後に見つかった。

 著書でも、開戦時の陸軍の作戦を「馬にあべこべにまたがって尻ならぬ肩の方をひっぱたいて走ろうとしたもの」とやゆ。自らが戦争の罪悪性を十分に認識していなかったと約40年後に著書で「今もなお良心の呵責(かしゃく)にたえない」と振り返った。

 終戦後、31歳で東大の研究生となり、欧州の宗教改革、原始キリスト教など研究を広げ、古代オリエント史へたどり着いた。講師として大学の教壇に立ち、ラジオやテレビの教養番組にも出演。

 「学者殿下」となった三笠宮さまがこだわったのが、紀元節問題。紀元節は「初代天皇」の神武天皇が即位したとされる日で、終戦で祝日は廃止されたが、66年に同じ日が「建国記念の日」に。三笠宮さまは、遺跡の発掘成果や日本書紀の記述を基に学術的根拠がないと指摘。再び国が祝日とすることに「学問の自由を脅かし、やがては戦争につながる」と反対。宮邸に右翼が押し掛けたが、事実と神話を厳しく区別する歴史観を貫いた。

 アイススケートが得意のスポーツマンでもあった。ダンススポーツには思い入れが強く「私を一番人間的に扱ってくれるのは、学会とスクエアダンス界だけ。だから私はこの二つが好きです」と率直に語っていた。

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