日本の騎士、五輪に別れ 「五輪コラム」

 男子フルーレ個人 初戦の2回戦で敗退し、頭を抱える太田雄貴=リオデジャネイロ(共同)
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 フェンシング男子フルーレの太田雄貴が、個人戦で予想外の初戦敗退を喫した後、現役引退の意向を表明した。2008年北京五輪では個人、12年ロンドン五輪では団体の銀メダルを獲得。15年世界選手権では個人優勝も果たした。世界に全く歯が立たなかった欧州発祥の競技で、日本選手として初めてトップクラスに上り詰めた。「マイナー競技」の悲哀をなめ続けてきた日本フェンシング界にもたらした功績は計り知れない。

 ▽マイナー競技からの脱皮

 中世の騎士の剣術が起源とされるフェンシングは、欧州では人気競技だ。しかし日本では、剣を使用したスポーツといえば剣道が主流。ほとんどの中学校、高校に剣道部があり、街には剣道クラブが普及している。一方のフェンシングは、剣を含めた装備に費用がかかり、競技にも高価な電子システムが必要になる。世界のトップを競う優秀な選手を輩出するには、その母体となる競技人口の層が極めて薄い。

 東京・渋谷にある岸記念体育会館。日本オリンピック委員会(JOC)日本体育協会などのほか、各競技団体の事務局がそろって入る日本スポーツ界の総本山のような古い建物だ。このビル内には日本フェンシング協会も事務局を構えるが、活気のある人気競技団体と比べれば、常に閑散としていた。

 太田が北京で銀メダルを獲得するまで、五輪での最高成績は1964年、地元開催の東京五輪での男子フルーレ団体4位が最高。その後は、メダルの影さえも踏めぬ惨敗続きだった。ベテランの女子事務局員は常にぼやいていた。「体操やバレーボール、レスリングはいいわよねえ。強化費だってふんだんにあるし、協会の役員もいつも元気だし。それにひきかえ、うちなんて、また合宿費補助を削られたのよ」。成績で査定される強化ランキングでは常に下位のままだった。

 そんな土壌から太田が生まれた。本場欧州の強豪に戦略と技術で立ち向かい、一気に日本国内で競技の認知度を上げた。刺激を受けた若い世代が力を付け始め、協会には協賛企業も集まるようになった。太田はさわやかな弁舌でも人気を集め、2020年東京五輪招致でも活躍した。東京開催決定時に、感激のあまり号泣した熱血漢ぶりでさらに好感度を高めた。

 ▽「ポスト太田」育成を

 日本フェンシング界の救世主の最後の戦いは、あっけない幕切れだった。相手は格下のブラジル選手。太田の圧倒的優位のはずが、序盤から先手を許す展開が続いた。終盤で地力を見せて13-12とリードしたが、ここから思わぬ3連続失点で敗退が決まった。今回で最後と決めていたのだろう。試合後は、五輪に別れを告げるように、かがみこんでピストに手で触れた。

 悔しさよりも、やり切った充実感の方が勝っているようだった。「4回もあの場に立てたことが本当にうれしい。感謝の気持ちしかない。五輪にここまで育ててもらえたなという思いでいっぱい」と話した。

 引退後も、太田にはやるべきことは多くある。自ら招致に貢献した20年東京五輪に向けて「ポスト太田」世代に、世界で勝つノウハウを伝えてほしい。活躍の場はフェンシングにとどまらない。日本が不得手なスポーツ外交の舞台でも、国際経験豊富な日本の「ナイト」への期待は大きい。(荻田則夫)

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