【99】20年に及ぶ日米架け橋役の恩人 故木下和孝さんの思い出

 「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」

 5月7日に20年間にわたって日米交流の架け橋役としておせわになった木下和孝(きした・かずたか)さんが71歳で亡くなった。

 木下さんは鹿児島県の出身で、ロス在留邦人としてスリーボンド米国法人の役員などを歴任、現地で骨をうずめるつもりだった。

 在留邦人には永住する人と出張で短期在留のタイプがある。短期の在留邦人間の交流はあまりないと後に伺った。

 そんな方たちを結びつけたのが木下さんだ。1991年夏、大阪桐蔭が優勝した年、日本選抜チームを編成して西海岸に派遣したとき、木下さんの長男、カート君は米国チームの投手として日米親善試合に参加した。日本チームには松井秀喜選手もいた。

 本格的に米本土のチームとの交流が始まったのは、これよりさかのぼる83年の夏、PL学園の桑田投手が1年生で優勝した年だった。当時は交流先の米国人家庭で受け入れをお願いしたのだが、やはり言葉が通じなくて選手たちはかなり戸惑った。

 それでも空港に見送りに来てくれた家族とは抱き合って別れを惜しんでいた。

 そこで91年のときは木下さんにお願いして、在留邦人の家庭を探してもらった。

 これが現地邦人家庭同士の交流が活発になった契機となった。

 彼らはTVで甲子園での様子をよく知っており、同年代の子弟がいる家庭では大歓迎を受けた。また郷里の出身選手を奪い合いになることもあった。

 受け入れ先の家庭は豪邸も多く、選手たちにとっては夢のような1週間を過ごした。

 そんな中、木下さんは受け入れ準備を詳細に打ち合わせ、各家庭間で差がないよう、弁当のメニューまで打ち合わせた。

 選手と一緒にホテルに滞在したときは、役員は点呼をしたり、夜抜け出す選手がいないかなど気が抜けない。ホームステイ先に預けるとあとは心配がなかった。選手に病気とケガさえなければこんな楽なことはなかった。

 木下さんは、米国には高野連のような組織はなく、経費の捻出まで奔走した。あちこちのスーパーマーケットにポスターを張り出し、パンフレットを作成して広告を集めたり、また試合当日は入場券販売係もした。

 もちろん滞在中はエンゼルスやドジャースの試合観戦の手配もしてくれた。

 お世話になった選手たちが、その後かつての家庭を訪ねたり、結婚式に招待した話もある。日米親善交流は2010年の興南優勝時に派遣した行事が最後になった。“カズ・キシタ”さん、安らかにお眠りください。

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