長嶋茂雄さんという男 戦後の日本に夢と希望 打席に立てば売り子も止まる 尾上辰之助「あの人はセカンドゴロで1点を狙う人ではない」
国民的スーパースターで「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれた巨人・長嶋茂雄(ながしま・しげお)終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。89歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は次女三奈さん。後日、お別れの会を開く。戦後日本、高度経済成長期の象徴的存在だった。娯楽のまだ少なかった時代、巨人の「4番・サード」として、光り輝いていた。勝負強い打撃、華麗な守備、走る姿もまた、格好良かった。もらった感動、元気、勇気、笑顔は数え切れない。ありがとう、ミスター。安らかに。
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1974年当時、後楽園球場のアルバイトの売り子には、今で言うマニュアルがあり、その中の一つに「長嶋が打席に立った時は黙ってゲームを見よう」があったという。声を張り上げて弁当やビールを売ろうとしても客の全神経は長嶋に注がれるため、売れない。球場に集まったファンが、いかに長嶋を見に来ていたかを物語るエピソードだ。
この年9月、長嶋の現役引退が判明するとデイリースポーツは連載「長嶋茂雄その世界」を2カ月以上にわたって43回、掲載した。アルバイトの回では「売り子たちは長嶋の打席が終わると、一斉に動き出す」と書いた。まだヒッティングマーチなどない時代、長嶋の打席にファンは固唾(かたず)をのみ、球場は時を止めた。
連載では、打撃や守備、走塁に始まり学生時代、家族、人気、お金…さまざまなテーマからその人間性を浮き彫りにした。1回目、歌舞伎俳優の初代・尾上辰之助が無死満塁のチャンスに打席に入った長嶋について語る。「あの人はセカンドゴロで1点を狙う人ではない。来た球をハッシと打つ。それが三遊間を抜ける」。ここぞという場面で期待に応える姿に魅了された。
連載5回目の紙面に、西鉄などで名遊撃手と呼ばれた豊田泰光の言葉が残っている。
「我々の時代の内野手は難球をどう楽にさばくかというので腕を競い合った。ムダのない広岡(達朗)のプレーが光っていたよ。ところが長嶋が現れてこの価値観がガラッと変わってしまったんだ。必要以上に派手な動きをするヤツだと思ったが、うまいしショーマンシップがある。これには参った」
魅せるプレーの原点は立大時代に読んだ米国の野球雑誌。三遊間の打球に飛びついた大リーガーの横に「ダイナミックな演技者」という見出しがあった。この言葉が長嶋の目指すプレースタイルになったという。
長嶋は努力型か天才型か-連載では「努力は人一倍したが、そんな舞台裏は人に見せる必要ないんだ。それがプロだ」という発言を引用し、長嶋は「観衆の前では涙と汗臭さを寄せつけない男のように見せた」とも書いた。そんなスマートさ、ダンディズムもミスタープロ野球の魅力のひとつだった。
空振りしてヘルメットを飛ばし悔しがる-失敗も不思議と絵になった。一塁ベースを踏み忘れたり、他人のユニホームを着たり。試合後「車がない」と騒いだ挙げ句「そうだ、きょうはタクシーで来たんだ」とケロッとした表情をみせる、そそっかしさ。阪神戦で打席に立つと捕手の田淵幸一に「さあブチ、いこう!」と武士の名乗りのように勝負を挑んだ純粋さ。
現役引退を受け、74年10月13日の紙面で作家の寺内大吉はこんな惜別の辞を寄稿した。
「普通のファンなら、年に何度かしかナマのゲームを見ることができない。凡ゲームだったり、敗戦だったりする。しかしそのファンはわずかな機会に満足した。
俺は長嶋を見たんだ。奴は間違いなくあの長嶋だった。
いつも何処かで長嶋は必ずファンの期待にこたえた。四打数無安打の晩もあった。しかし猛ゴロに飛びついて、倒れながら一塁に刺す。いつもパッと明るく躍動してきたのが長嶋茂雄であった」
長嶋は高度経済成長時代の日本を明るく照らし続けた。(敬称略)





