「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さん偉大なる足跡 名選手であり名監督、野球の神様に愛された男
国民的スーパースターで「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれた巨人・長嶋茂雄(ながしま・しげお)終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。89歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は次女三奈さん。後日、お別れの会を開く。戦後日本、高度経済成長期の象徴的存在だった。娯楽のまだ少なかった時代、巨人の「4番・サード」として、光り輝いていた。勝負強い打撃、華麗な守備、走る姿もまた、格好良かった。もらった感動、元気、勇気、笑顔は数え切れない。ありがとう、ミスター。安らかに。その偉大な足跡を振り返った。
【第1次巨人監督(1975~80年度)】
第1次政権は屈辱からスタートした。現役引退直後に38歳で監督に就任。当時は異例の背番号90を選び「クリーンベースボール」をキャッチフレーズにした青年監督は、1975年、巨人史上初の最下位に沈む。
「長嶋がいない巨人」を率いたことに同情の声も上がる中、76年は張本勲を獲得。王貞治とのOH砲が機能し、高田繁を外野から三塁へコンバートするなど手腕も光った。最下位から優勝もまた長嶋さんらしい劇的さだった。77年はぶっちぎりで連覇を達成した。
78年、2位に終わったオフに江川事件が起き、エースの小林繁を失った。79年は5位。秋季キャンプは江川卓、西本聖、山倉和博、中畑清、篠塚利夫、松本匡史ら少数精鋭18人の若手を鍛え、のちに地獄の伊東キャンプと呼ばれた。
彼らを主体にした80年は3位とAクラスを確保。しかし全日程終了後「男のけじめ」と辞任会見を行った。実質的な解任だった。この監督交代劇に日本中が怒った。読売新聞の不買運動にまで発展した。直後に王が引退を表明。プロ野球の舞台が大きく動いた。
【浪人時代(1981~92年)】
81年から12年に及ぶ浪人時代を経験した。文化人・長嶋茂雄は引っ張りだこで、81年に限ってもキューバの視察、韓国や中国での野球指導や講演、10月のワールドシリーズ視察など精力的に海外に足を運んだ。
野球以外にも見聞を広め、91年世界陸上ではテレビ番組のリポーターを務めて男子100メートルの金メダリスト、カール・ルイス(米国)に「ヘイ、カール!」と突撃取材を試みたシーンは有名。この頃には偉大なプロ野球人というよりも「面白い人」というイメージが持たれた。
この間、巨人以外の球団から相次ぎ監督就任の打診があった。特に関根潤三氏は82年大洋監督に就任後、「長嶋監督が実現したら交代する」と公言。87年ヤクルト監督就任後も長男・一茂をドラフト1位指名。監督就任の受け皿を整える動きがあった。
【第2次巨人監督(1993~2001年度)】
長嶋さんは93年シーズンから2度目の巨人監督に就任。巨人の2年連続V逸を受けて再建を任されたものだが、同時にプロ野球全体の人気ちょう落に歯止めをかける役割も期待された。
この年5月、Jリーグが発足した。サッカーにプロリーグが誕生し、大相撲では若貴ブームが起きていた。長嶋さんは「今こそファンを球場に呼び、魅力あるプロ野球を見せなければ」とミッションを買って出た。
早速、次代のスターと巡り合う。92年11月のドラフト会議で星稜・松井秀喜をドラフト1位指名。4球団が競合したが、自らクジを引き当てサムアップポーズ。ムフフと笑う横で、クジを外した同じ千葉県出身の中村勝広当時阪神監督も思わず笑顔になった。入団後は「4番1000日計画」を打ち出し、試合後に自宅に呼んで素振りをさせるなど、厳しく粘り強く、本物のスターを作り上げた。
94年は「10・8決戦」で伝説の名勝負を演じた。「国民的行事です」と称して野球人気を盛り上げた。96年には自ら考案した和製英語「メークドラマ」を連呼し、最大11.5ゲーム差をひっくり返し優勝。言葉の力でムードを生み出す手法もまた独特だった。
4番ばかり集めた打線もまた第2次政権の特徴だった。FAで落合博満、広沢克己、清原和博を獲得。2000年に江藤智を獲得した際には背番号「33」を譲り、永久欠番の「3」を復活。この年、王監督率いるダイエーとの日本シリーズを制し20世紀最後のシーズンを日本一で飾った。
【第2次巨人監督退任後(2002~25年)】
まだ寒さの残る朝だった。2004年3月4日、長嶋さんは東京都内の自宅で気分が悪くなり、都内の病院に搬送。「中程度の脳梗塞で、右半身に軽いまひが見られる」との診断結果が発表された。
当時68歳。01年に巨人監督を退いた後、04年アテネ五輪の日本代表監督に就任。03年11月に本大会出場切符を獲得し、五輪出場という長年の夢へ一歩近づいた矢先、病に倒れてしまった。
それでも入院から6日目には、リハビリを開始。「俺は(アテネに)行く」という強い思いで過酷な日々を送った。五輪での指揮はかなわなかったが、驚異の精神力と体力で、07年2月には巨人の宮崎キャンプを訪問するまでに回復。「今年は勝つ!!3回言う。勝つ!!勝つ!!勝つ!!」。久しぶりに聞く長嶋語だった。
13年には愛弟子・松井秀喜氏と国民栄誉賞をダブル受賞。5月5日の東京ドームでの授与式では、松井氏の投げるインハイへのボール球に、本能が反応。左手一本での“豪快スイング”で空振りした後、悔しがる姿が印象的だった。
21年7月。「体の全部を鍛えてね。(トーチを)持つために一生懸命やりました」。東京五輪開会式では、王貞治氏、松井氏とともに聖火ランナーを務めた。





