ヤクルト優勝 2年連続最下位から下克上 最大7差からTG三つ巴制した

 「DeNA1-5ヤクルト」(26日、横浜スタジアム)

 ヤクルトが阪神とのデッドヒートを制して2015年以来、6年ぶり8度目の頂点に立った。高津臣吾監督(52)は就任2年目で初優勝となった。9月に球団新の13試合連続無敗などで勢いに乗り、最大7ゲーム差をつけられた阪神を逆転。前年最下位からの優勝は、セ・リーグで5度目となった。日本シリーズ進出を目指し、11月10日からは神宮で阪神-巨人の勝者とCSファイナルステージに臨む。

 選手たちの姿が、少しだけにじんで見える。マウンドにできた笑顔の輪に呼ばれ、一歩、二歩…。ヤクルト・高津監督が目頭を熱くし、歩み寄った。「選手の頑張りが全て。みんな、本当におめでとう」-。ナインを信じ続けた答えに今、たどり着いた。

 2年連続最下位から巻き返した。開幕3連敗スタート。6月には阪神に最大の7ゲーム差をつけられた。悔しくて眠れない日もあった。それでも9月に13試合連続無敗で首位に立った。

 19日から4戦勝ちなしと苦しんだが、この日は今季を象徴するつなぎの野球で逆転。最後にみんなで喜びを分かち合った。全てが報われた夜。選手たちの手で、5度宙を舞う。夢にまで見た景色だ。

 「悔しいスタートになりましたけど、その悔しさをずっと胸に持って、選手が一生懸命戦ってくれました。ファンの皆さん、絶対に大丈夫です。われわれは絶対に崩れません」

 “死に場所”を探していたのかもしれない。ヤクルトの黄金期を支え続けた守護神は、04年に海を渡った。シカゴ、ニューヨークと拠点を変え、再びヤクルトへ。07年に戦力外通告を受けると、今度は韓国へと向かった。

 波瀾(はらん)万丈の野球人生だ。なかなか所属チームの決まらなかった09年。米国で一人、練習に励んだ日々がある。公園でのキャッチボールに、「やりたくてもできないもんね」とうつむきそうになる顔を懸命に上げた。笑い話になるまで、ずいぶんと時間がかかった。

 10年から、今度は単身で台湾へ。翌年には独立リーグBC・新潟に移籍し、22年間の現役生活を終えた。「野球が大好き。もっともっとうまくなりたい」。口癖だった。向上心が支え、野球への愛が原動力だった。

 監督1年目の20年2月、恩師である野村克也氏が急逝。高津監督がヤクルト入団時の監督で、守護神に抜てきされた。難しいポジションを任されたが、不思議と怒られた記憶はない。「セーブし終わって、決まって言われるのが『ありがとう』か『サンキュー』。それが僕にとっては全てでした」。感謝の言葉が支えだった。

 最下位チームの再建を任された直後の訃報だった。「弱者が強者になれる、それが野球」。記憶をたどれば、野村氏の言葉ばかりが思い浮かんだ。真っ赤に染まった潤んだ瞳。高津監督は涙の分だけ前へ進むと誓った。

 昨季最下位となった悔しさがある。「『よう、やったな』くらいは言ってくれるかもしれないですけど、ふんって笑っているんじゃないですか」。きっと褒められはしないだろう。それでも…。悩んだときには、ぼろぼろになった当時の野村ノートを開き、ヒントを探した。そんな日々の中で、「絶対、大丈夫だ」を選手たちに何度も伝え、チームの合言葉にした。

 現役にこだわり、プレーする場所を探し続けた野球人が、横浜の空に舞う。新潟で幕を閉じた野球人生。終わりは、いつも始まりと隣り合わせだ。「選手が頑張ってくれた成果。気持ちよく胴上げしてもらいました」。高津監督が、慣れ親しんだ場所で“生きる場所”を見つけた。

 行こう、20年ぶりの日本一へ。最大7ゲーム差をひっくり返した奇跡の続きへ、ページをめくろう。高津監督はまた声を上げる。「絶対、大丈夫だ」-と。

 ◆高津 臣吾(たかつ・しんご)1968年11月25日生まれ、52歳。広島県出身。現役時代は右投げ右打ちの投手。広島工から亜大を経て、90年度ドラフト3位でヤクルト入団。最優秀救援投手に4度輝き、4度の日本一に貢献。米大リーグでは2004年からホワイトソックス、05年途中からメッツで通算27セーブ。06年にヤクルトに復帰し、NPB通算598試合36勝46敗286セーブ、防御率3・20。韓国、台湾、独立リーグのBCリーグでもプレーした。ヤクルトで14年から投手コーチ、17年から2軍監督を務め、20年から1軍監督。

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