坂本勇人には人をひきつける何かがある 幼少期から変わらないキャプテンシー

 勇人はみんなから慕われる「親分」-。国の威信をかけて戦い抜いた東京五輪の野球日本代表「侍ジャパン」。リーダー役としてチームをけん引したのは坂本勇人内野手(32)だった。原点は兵庫・猪名川沿いの河川敷。伊丹リトルシニア時代に監督として指導した森繁樹さん(63)が、まだダイヤの原石だった当時を振り返った。

 日本国民の期待を一身に背負って、チーム最年長として侍ジャパンを先導した坂本。兵庫県伊丹市の自宅で勇姿を見届けた森さんは感慨深げだ。「ほんまにこんな選手になるとはな…。信じられないですね」。教え子の中学時代を思い返し、どこか誇らしげだった。

 練習は週5日。猪名川沿いの河川敷で平日は夕方から約3時間、土日は朝から晩まで未来のプロ野球選手たちに付き合った。「坂本に光るものはあったんやけど、めちゃくちゃ目立つという感じではなかったかな」。主に代打要員として2年から試合メンバーに入り、3年になって「3番・遊撃」に定着した。 特に印象として残るのは“バッティングの虫”だったということ。練習開始前に一人でティー打撃を行い、練習後も最後までグラウンドに残っていた。「『もう(ティー打撃用の)ネットを家に持って帰ってええで』と言ったこともありました」。3人1組で行うフリー打撃では前の選手の順番を飛び越し、楽しそうに打撃ケージを独占していたという。

 一方、守備練習には“消極的”。シートノックをこなした後、投内連係やサインプレーの練習になると「『お腹が痛くてトイレに行ってきます』とか『走っときます』とか言っていなくなってしまう(笑)」と森さん。「やんちゃやけど憎めないタイプでした」と懐かしそうに振り返る。

 同級生で主将を務めていた藤田亮輔さん(32)は「勇人はみんなの親分でしたよ」と笑う。暇さえあれば仲間をイジり倒し、ただ人を傷つけることは一切なかった。「やんちゃで怖がられていた部分もあったと思います。でも、勇人の近くにはいつも友達が集まっていました。ミスしたら『気にすんなよ』と声を掛けてくれたり、実は優しいやつなんです。慕われていましたね。グラウンドからいつも一緒に自転車で帰っていましたけど、冬は途中のコンビニでおでんの大根を食べるのが楽しみでした(笑)」

 3年になると副主将に就任。だが、一度も全国大会に導くことはできなかった。8月に倉敷マスカットスタジアムで行われた関西西部ブロック卒業大会。1回戦で三田リトルシニアに完敗し、全てが終わった。「チームが弱くてね。よく試合の後に泣いてたけど、最後も坂本は泣き崩れていた」と森さん。負け続けた3年間だった。

 あの夏から18年。やんちゃだった「親分」は日の丸を背負い、野球日本代表のリーダーとして金メダル獲得に貢献した。藤田さんは言う。「勇人には人を惹きつける何かがあるんですよね。親分。その言葉が一番合っていると思います(笑)」

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