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池田、常識を覆した“やまびこ打線” パワー野球体現

 「池田の3年間が今も役立っている」と江上氏=日本生命久留米支社
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 高校野球を変えた-。第64回大会(1982年)は池田(徳島)が、3度目の夏で初優勝を果たした。草創期、中等学校の時代から、血のにじむ猛練習で守備を鍛え上げたチームが覇権を争う舞台で、池田は常識を覆した。人呼んで『やまびこ打線』。当時2年生ながら強力打線の一角を担った江上光治の証言を中心に、歴史の転換点をクローズアップする。

 池田は1983年、桑田真澄、清原和博の1年生コンビが登場したPL学園に敗れ、前年夏からの3連覇を果たせなかった。しかし、江上は84年に進学した早大野球部の仲間から「よく『池田って、何であんなに強かったの?』って聞かれました」と言う。

 それほど、第64回大会準々決勝で早実を14-2、決勝では広島商を12-2と蹴散らして頂点に駆け上った『やまびこ打線』のインパクトは強かった。

 バントに流し打ち、犠牲の精神が尊いとされ、パワーという高校生が手を出しづらかった領域に着目した池田が“あの荒木大輔”を打ち崩した瞬間、高校野球は確かに変わった。

 検証すると、数年前からあらゆる状況が、その瞬間に向かって動いていた。畠山準という並外れた好投手が80年に入学するも、一度も甲子園の土を踏めぬまま、82年のセンバツ出場も逃した。チャンスはあと1回だった。

 その冬、レスリングの有名選手だった野球部副部長・高橋由彦の提案を、蔦文也監督は渋々受け入れた。当時は軽視されていたウエートトレーニングと、近隣のレストランを巻き込んだ“食育”だ。高橋は江上が1年時に池田に再赴任してきた。過去にも進言していたが、蔦に突っぱねられている。今回は、わらにもすがる思いだった。

 畠山世代最後の夏、池田は甲子園切符を手に入れた。開会式。室内練習場に入場行進を待つ出場校が詰め込まれる。中軸を任された2年生の江上と水野雄仁は常に行動を共にした。「あの時、水野が『みんな中学生みたいやな』って、僕も『オレら、すごいな』と」と体つきの違いを実感した。

 1回戦。静岡の主戦・大久保学に手を焼いたが四回、山下和男が一塁強襲の逆転打を放つ。江上は「失策気味でした」と言うが、7番打者の打球ですら、伝統校・静岡の野手が戸惑う強さを持っていたのではないか。

 2、3回戦で決勝本塁打を放った山口博史には『恐怖の9番』の異名がついた。もともと江上が「僕が3番なんて、山口さんの前でおこがましい」という中軸打者だったが、実はお調子者であるが故に蔦監督からおきゅうを据えられての打順だ。しかし、周囲はそう見ない。「9番で、あれかよ…」。

 “池田伝説”が膨張する。ファンには共感を、相手チームには恐怖心を植え付ける。極めつけが準々決勝、対早実だった。

 ここでも、運命が池田の背中を押す。朝からの強い雨。3年前、センバツの準々決勝で豪雨の中、東洋大姫路と死闘を演じ、敗れた経験のある蔦監督は「絶対に試合はある」と細心の注意を払って備えた。一方、「早実は一度、宿舎に引き揚げましたね。多少、気が緩むこともあったのでは」と江上は語る。

 さらに甲子園で16試合を経験した江上が「唯一」という、荒天により開放された室内練習場での呉越同舟。ここで畠山がやや力を込めたキャッチボールをしたところで、早実ナインが「ざわついたんです。そこでもう、勝負はついてたんじゃないでしょうか」。

 3番・江上が先制弾、5番・水野が2本塁打。荒木、石井丈裕に計20安打を浴びせた。繰り返される金属音が、銀傘にこだました。伝説は『やまびこ打線』と名付けられた。

 79年センバツの雨。畠山入学後も遠い甲子園。高橋副部長の再赴任と筋トレ導入。下位打線の活躍。荒木大輔という大スターの存在。早実戦直前の悪天候。そして、2年生コンビ…。すべてのストーリーはこの日、この瞬間のために準備されていた。そう思えてならない。=敬称略=

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