龍谷大平安・原田監督の“平安愛”とは

 球春を告げたのは、伝統校の復活劇だった。第86回選抜高校野球の決勝戦で履正社との“京阪対決”を制した龍谷大平安。夏3度優勝の強豪だが、春は初めての甲子園制覇で、聖地の頂点は1956年夏以来58年ぶりだった。率いたのは93年の就任以来、22年目で初めて優勝監督となった原田英彦監督(53)だ。

 記者が取材してきた中ではおそらく“最速胴上げ”だった。優勝が決まり、校歌が流れ、三塁側アルプスの応援団へあいさつに行った選手たちは、そのままベンチに帰らず指揮官を3度胴上げした。優勝インタビューの前に、原田監督は宙に舞った。ナインの思いが見てとれた。

 「優勝したら絶対に涙が枯れるまで泣くと思っていたんですよ」と言う原田監督だが、実際にはお立ち台で少し目を潤ませただけだった。「どこかファンの目線で見ていたんですね。(歓喜に沸く)アルプスの中に自分も入りたかった。一緒に喜びたかったなあ」。

 長年見つめ続けた写真がある。1938年に平安が初優勝した時の白黒写真だ。京都市下京区の西本願寺の隣にある同校には、正面に面した校舎の2階に大きなバルコニーがある。そこで誇らしげに選手が並び、下で大勢のファンが見上げている。当時は優勝パレードも行われたという。

 同校近くの九条大宮で育った原田監督は、子供のころから大の平安ファンだった。すでに優勝からは遠ざかっていたが、よくグラウンドで練習を眺めていた。小学4年の時には自分たちの少年野球チームを作り、マジックで胸に「HEIAN」の文字を入れた。

 「前回優勝したのは僕らが生まれる前で、その歴史は映像として残っていない。資料として残っているだけなんです」

 社会人野球を経て母校の監督となってからは、優勝を“歴史”として終わらせない、その一念だった。97年夏に川口知哉投手(元オリックス)を擁して準優勝したが、そこからまた18年。勝てない時期は古豪ゆえのOBの重圧もあった。とにかく長い道のりだった。

 ベンチでも異彩を放つ厚い胸板。今でも筋トレを続けるその肉体は、どの選手より屈強に見える。その体で選手をしごく姿は記者から見ても「おっかない」。それでもナインや保護者から確かな信頼を得るのは、根底に流れる純粋な“平安愛”ゆえだろう。

 優勝報告会では、「これから追われる立場になる。もう次のことを考えてます」と前を見据えた。センバツ出場が決まってから、頂点を獲ると決めてとにかく走り続けた。「ここ1カ月半ほど忙しくて腹筋が緩んできた。1カ月くらいでまた6つに割りますよ」。豪快に笑う姿を、ナインが頼もしげに見つめていた。

(デイリースポーツ・船曳陽子)

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