原節子さん死去 隠された死の事実

 小津安二郎監督の「東京物語」や今井正監督の「青い山脈」に出演し、日本映画の黄金時代を支えた伝説の大女優、原節子=本名・会田昌江=さんが9月5日に肺炎のため、亡くなっていたことが25日、分かった。95歳。横浜市出身。生涯独身を通し、日本人離れしたたぐいまれな美貌で『永遠の処女』『日本のグレタ・ガルボ』と呼ばれた。1963年、小津監督の葬儀以降、表舞台には一切立っていなかった。亡くなったことは、故人の意向を尊重し、伏せられていた。

 小津監督が亡くなった63年に女優を引退し、生涯、表には出ないというスタンスを貫いた原さん。映画界やファンとの交流も一切断ち、神奈川・鎌倉の自宅で静かに暮らしていた。女優・司葉子(81)は、原さんを「ほんとに素敵なお姉さま」と姉のように慕い、時々文通や電話をするなど、交流を続けていたという。

 自宅で原さんの身の回りの世話をしていた甥は昨年12月発売の週刊誌の取材に答え、「基本的に外出はせず、車でお寺に行ったり、月に何回か外に出るくらいです」と生活ぶりを説明。今年10月末に発売された週刊誌では「9月中旬ぐらい」に原さんが入院し、時々見舞っていること、体調については「前はかくしゃくとしていましたが、もう本人も歳なので」などと説明していた。

 しかし、入院時期と説明していた9月中旬にはすでに亡くなっていた。すべては、生涯表舞台には出ないと決めた原さんの意向を尊重し、静かに眠ることができるよう、親族が配慮していたと思われる。

 原さんは1935年、「ためらふ勿れ若人よ」(田口哲監督)で映画デビュー。36年、ドイツの巨匠アーノルド・ファンク監督の目にとまり、日本初の国際合作映画として制作された「新しき土」(37年)のヒロインに抜擢された。映画は日本、ドイツなどで大ヒットし、スターダムに躍り出た。

 小津監督と初めて組んだのは49年公開の「晩春」。小津作品には「小早川家の秋」(61年)まで6作品に出演し、日本映画界における最強コンビと言われた。最後の映画出演は62年公開の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」となった。

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