球界に存在した王ボールと長嶋ボール 忘れられないあと一人でノーヒットノーランの試合 カープOB安仁屋宗八氏が振り返る昭和プロ野球

 広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。ONと名勝負や、チームメートとの思い出、今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。

  ◇  ◇

 昔、王ボール、長嶋ボールというのがあったんですよ。王さん、長嶋さんが見逃した球は、たとえストライクでもボールになる。ホントですよ。

 「ふたりが見送ったらボールじゃ」って逆に審判から怒られたほどだったから。ひどいときは「同じ人間がやるんだから失敗もあろうが!」と開き直られることもあったね。

 だから僕は「ON」から見逃しの三振を取ったことがない。空振りの三振はあったけどね。つまり、それだけ偉大な人だったということですよ。そしてあのころは審判の権限も強かった。

 僕は巨人戦で34勝しているけど、アンチ巨人という言葉が生まれるほど強いチームだったから、やっぱり意識した。巨人戦は沖縄でも放送されるし、家族にも見てもらえるから一層気持ちが入ったものですよ。入団3年目に経験した1安打完封は特に覚えている。

 (1966年7月31日、広島球場での巨人戦。先発した安仁屋は八回まで無安打投球を続けていたが、九回1死から9番・池沢に四球を与え=代走・千田、2死後、2番・黒江に中前打を打たれ、ノーヒットノーランを逃した)

 なにしろ最初で最後の経験だったしね。七回ごろから周りがシーンとしてきて雰囲気が違っていた。調子はごく普通で、それまで意識もしていなかったのにね。

 リードは2点。九回は次の王さんに回すと一発で逆転される場面だったから“抑えないかん”という気持ちが強すぎたかもしれんね。あそこはヒットを打たれた悔しさよりも“まずい”という感じが先に来た。

 その王さんへの初球。これも“まずい”と思ったね。内角へのスライダー。ファウルでカウントを稼ぐつもりだったけど曲がりが少なく、甘く入ったところをライトへ運ばれてドキッとした。1メートル切れたぐらいの大ファウルだったから。リキんでいたんだと思うね。最後は一塁ゴロに抑えて試合終了。あのころは調子がよくなくて、あれが4勝目だったかな。全部巨人戦だったね。

 王さんは絶対に引っ張って勝負する人だった。だからどのチームも「王シフト」を敷いて内野手が右寄りに守っていた。

 広島はサードの興津さんがショートのあたり。ショートの古葉さんとセカンドの阿南さんも右へ寄ってファーストが藤井さん。ヒットを稼ごうと思えば三塁線がガラ空きなんだから、そこへチョコンと流し打てばいい。だけど王さんはそれをやらなかった。ホームランにこだわるバッターだったね。

 僕も真っ向から勝負を挑んでいた。たとえ打たれても“給料が違うんだから仕方ない”と割り切って投げてたね。王さんに対しては対戦のわりにホームランが少なかったんじゃないかな。

 (ちなみに安仁屋対王の対戦成績は203打数、60安打、17本塁打、34打点、打率・296)

 巨人にはほかに柴田、高田、土井という足や小技の利く人や国松さん、末次さんら強打者もいたが、とにかくONの前に走者を出さないことだけを考えてたね。

 黒江さんには「広島戦前は、お前のためのミーティングをよくやったもんだよ」と言われた。ホントかウソか知らないけど。まあでも、右打者にはあまり打たれた記憶はないね。

 ◇安仁屋 宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。

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