【永山貞義よもやま話】カープ若手に伝えたい「青い熊」

 小園ら若手に「あおいくま」の言葉を贈りたい
 不屈の精神でレギュラーに上り詰めた水谷実雄(78年撮影)
2枚

 いつの頃だったか、テレビのニュース番組を見ていると、野球評論家の達川光男さんが「青い熊」「あおいくま」と連呼し、選手が持つべき心構えを説いていた。

 そうなのだ。これは人生訓として、よく使われる応援歌。ものまね芸人のコロッケは、お母さんから教わったこの言葉を胸に刻んで熊本から上京し、苦境の際には反すうしていたという。その「あおいくま」とは-。

 「焦るな」「怒るな」「威張るな」「腐るな」「負けるな」の頭文字。その他にも「おい悪魔」との人生訓もあるが、言っている意味は同じのようである。

 このフレーズを持ち出したのは、2軍暮らしを続ける小園海斗に「腐るな」「負けるな」などとの声援を送りたくなったからに他ならない。

 なにせ小園といえば、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の監督、栗山英樹氏が今年の春季キャンプを視察に訪れた際、「球界の宝物」と称したほどの逸材。それほどの選手が打撃不振や走塁やバントミスなどが原因で、わずか10試合で2軍落ちしたのが腑に落ちないのだ。

 カープ球団の過去を振り返ると、この「あおいくま」に寄り添ってきた選手は多くいた。その代表格は水谷実雄だろう。投手から野手に転向したこの選手は6年目の1971年、ベストテン3位の打率・283をマークし頭角を現したが、翌年から球団が初めて獲得した外国人選手によって、外野のポジションからはじき出された。

 後年、聞いた話では、この扱いに対して「何でや」との怒りを数年間、持ち続けたという。同時に生じた投げ出したい気持ちを反発心に変え、再び奮い立つことができたのは、「山本浩二や衣笠祥雄にも負けない」との闘争心からだった。

 負けないための方策は、ただバットを振るだけの一点。朝、球場に行く前に振り、家に帰った後に振り、そしてたばこを吸いながらも振ったというから、自らに打ったムチの数は誰にも負けてはいなかった。

 おかげで初優勝した75年には、・285をマークし、レギュラーに定着。78年には首位打者を獲得したほか、「守れない」「走れない」との弱点から、阪急にトレードされた後の83年には打点王にも輝いている。

 人は逆境に陥った際、落ち込むタイプとバネにするタイプがあるという。こうした色分けで見ると、ドラフト4位の投手として入団した水谷は、明らかにバネにするタイプ。雑草のようなたくましい生命力で、大輪の花を咲かせた。

 こんな水谷に対して、小園は高校時代からスター扱いをされたエリート選手。逆境とは縁遠い土壌育ちだったゆえに1度、落ち込むと、焦りと腐りの連鎖によって、立て直しに手間取るのかもしれない。

 今のカープには小園だけではなく、「あおいくま」と声をかけたくなるような若手が結構いる。投手では遠藤淳志、玉村昇悟、黒原拓未、野手では中村奨成、石原貴規、宇草孔基、末包昇大、中村健人ら。これらの選手が「あと一皮か、二皮むけてくれれば」と思って、ウエスタン・リーグの試合結果にも、目を凝らして見ている毎日である。

 ◆永山 貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。阪神で活躍した山本和行氏は一つ下でエースだった。

関連ニュース

編集者のオススメ記事

広島カープ最新ニュース

もっとみる

    スコア速報

    主要ニュース

    ランキング(野球)

    話題の写真ランキング

    写真

    デイリーおすすめアイテム

    リアルタイムランキング

    注目トピックス