知覧で散ったプロ野球選手
【8月10日】
知覧へ行ってきた。戦後81年、これまで一度も触れたことがなかったので行くべきだと思って行ってきた。鹿児島空港から車で1時間半。そこで見聞きしたものは…度々言葉を失った。
8月15日は終戦記念日とされ、政府主催の「全国戦没者追悼式」が日本武道館で行われる。毎年この模様をメディアで見て「今年もそんな時期か…」と思う程度になっていた自分がいた。 戦争を知らない世代。平和ボケしていると言われても返す言葉がない。この歳になって恥ずかしい限りだが、だからこそ、戦地へおもむき、直視する機会を作りたい思いがある。
南九州市の知覧基地は第二次世界大戦末期の沖縄戦で陸軍特別攻撃隊の主力出撃基地となった。沖縄戦で亡くなった1036人のうち439人がここから出撃した。ご存じの通り、特攻隊員は10代後半から20代前半の若者が中心。知覧飛行場跡に建てられた特攻平和会館に保管される彼らの遺品、遺書は涙なしで触れることはできない。
職業柄目を引いたのは「プロ野球選手だった特攻隊員、渡辺静の遺書」である。1943年に朝日軍(のちに後身の松竹ロビンスが大洋ホエールズと合併し、現在のDeNAベイスターズに)に入団した渡辺は将来を嘱望されたが、22歳で知覧から特攻し、南海に散った。出撃3日前に父母へ宛てた手紙には「野球生活八年間 わが心 鍛へしくれし 野球かな」。両親への感謝、健康を祈る念がしたためてある。
その渡辺がプロ野球選手としてグラウンドに立ったのは、わずか2試合。その球場は…甲子園と後楽園だった。
叶うならば、もっと、もっと、
野球をしたかった-。
後楽園球場閉幕のあと開場した東京ドームの外構には、太平洋戦争で命を落とした野球選手らを慰霊する「鎮魂の碑」があり、そこに渡辺静の名も刻まれる。巨人軍監督時代の原辰徳はキャンプ中に選手を連れて知覧を訪れたという。その習わしは、実は今も受け継がれ、今年2月にも巨人の若手が特攻地を見学に来ていたそうだ。
今夏の甲子園で、八王子実践の主将は選手宣誓でこんなふうに発信した。
「人生には幾多の困難が待ち受けています」
「いま野球ができることは決して当たり前ではありません。だからこそ高校球児はいい顔をして野球をしよう」
天災地変は場所を選ばない。こうして野球をできる感謝をいつも胸に…。
さて、100試合を戦い終えた阪神の軍はいま首位にいる。きょうから東京ドームで巨人軍と交える首位攻防は
夏の大一番になるわけだが、虎軍にはとにかく「いい顔」で野球をしてもらいたい。今年はずっとそう思っているが、この地に来てなおさら思う。
知覧の特攻で戦死したのは、語り部によれば、17歳から32歳。婚約者へ宛てた特攻隊員の遺書には「自分のことは忘れてほしい…」。それでも「会いたい。話したい。無性に…」。
これからは、8月15日を素通りすることはない。野球を見る有り難みを、後楽園の地で心する。=敬称略=
