ひとりになる時間をつくれ
【9月14日】
福留孝介のラストステージを目に焼きつけてきた。24年前、いや27年前から彼を見てきた者として感無量だった。最終回の守りで涙し、最終打席で唇を震わせる45歳を眺めると、もうダメだった。
そして、引退スピーチのこのメッセージがとどめ…だった。
「24年間、戦い続けることのできるこの体を産んで、育ててくれた両親、本当にありがとう。そして、一番近くで応援し、支えてくれた、和枝(かずえ)、颯一(はやと)、桜楓(はるか)、本当にありがとう」
花束贈呈で偉大な父を労った長男・颯一くん…彼のことを幼い頃から知る。近所の塾へ通ったり、公園で遊ぶ姿を何度も見掛けていたこともあって、ずいぶん大きくなったなと感じると同時に、その成長の年月を思えば、そりゃ孝介パパも歳をとるはずだ。
「風さんの名前って、どんな意味があるんですか?」
福留から聞かれたことがある。
一通り答えると、今度は、なぜそれを聞いたか気になった。
「僕も『風』という一文字を子ども達につけたかったんですよ」
確かに、息子さん、娘さん、ともに風(颯、楓)という字が…。
彼が中日から移籍し、メジャーリーガーとなったシカゴは、WINDY CITY(ウインディーシティ)と呼ばれる。ミシガン湖から吹き抜ける「風」が由来となっているけれど、積年の夢を叶えた街の愛称にあやかり…阪神へ移籍してきて最初にテーブルを囲んだ夜に、そんな話をしてくれたことが懐かしい。
「(中日時代)日本一になった時に、自分自身、故障でその場所にいれなかった、その悔しさ、その気持ちもここまでプレーを続けてきた原動力だったと思います」
引退スピーチで福留はそうも語っていた。中日が日本シリーズを制した07年、右肘を故障し後半戦を棒に振った。その無念、悔恨が40歳をこえてなお歯を食いしばる原動力だったとは知らなかった。
結果として、同年冬、シカゴカブスと契約し海を渡るわけだけど実は、福留と阪神の〈良縁〉はその07年から始まっていた-。
右肘手術で渡米した夏、交流のあった渡辺謙夫妻とともにドジャースタジアムでMLBを観戦した夜があった。その際、スタンドへ飛んできたファウルボールが夫妻に直撃しそうになると、その打球を福留が痛めていない左手でキャッチ。「孝介は恩人。いつかウチ(阪神)に来て欲しい」。熱烈虎党のラストサムライからラブコールを受け、それから6年後、まさか謙サンの謝意に応えるとは…。
これまで福留の記事を沢山書かせてもらってきた。ひとまずこれが最後かと思うと、さみしいけれど、実は、またどこかでこの縁が繋がるような気がしている。
僕が聞いた限りで、福留から竜虎の後輩へのラストメッセージを書くとするならば、これ。
「みんな、ひとりになる時間をつくってほしい」
ひとりで練習する。そして、自分との戦いに勝て…。=敬称略=