振り子をやめたらどうだ?
【2月13日】
訃報が流れた日、長く野球メディアに携わる者は、ノムさんと近しい誰かを思い浮かべたはずだ。そして、その誰かに故人を偲んで(語って)もらい淋しさを共有する。当方の頭に浮かんだ男は…。
「働き方改革」により?連休だった僕は宜野座からレンタカーで宜野湾へ向かった。当方が語れる知将・野村克也はヤクルト時代でも、楽天時代でも、シダックス時代でもない。20余年前の「野村阪神」を回想した時、真っ先に…。
「いえ、その取材は誰からも受けてませんね。僕も何かを発信しようと思ったんですけど、ちょっと、まだ整理がついてなくて…。僕、克則とも仲がいいので、あまり軽率なことも言えないし…」
DeNAベイスターズ打撃コーチ坪井智哉である。
「あぁ、それはもちろん覚えてますよ。そりゃ苦しかったですから…。あの時はすぐ代えられると思ってたんです。開幕戦で1本も打てなくて、2試合目も無安打でしょ。もう俺は外されるだろうなって…。でも、外されなくて。開幕3試合無安打でも、まだ外されなくて。4試合目でようやくヒット打ったのかな。あの間、野村監督からは『お前はダメだ』とも、何も言われなかったし、新聞記者にも、僕が打てないことを何も話されなかったみたいで、記事になることもなかったんですよ」
あれから21年。僕が坪井に尋ねたのは「野村阪神」の初年度、1999年の開幕カードについて。
当時、関西のフィーバーぶりはハンパなく、時価100万もする「純金製・野村監督像」が発売されるなどノムさんは猛虎再建の救世主として崇められていた。そんな熱狂の開幕戦、しかも伝統の一戦で「1番センター」を任されたのが前年新人王争いした2年目の坪井だった。僕の記憶に残るのはヒットメーカー坪井が開幕から18打席ノーヒットという不振に陥ったこと。さぞかし、ボヤキの標的になったのでは?そう問うと、坪井は「いや、全然…。我慢して使ってくださったのかな…」と、ノムさんの〈親心〉を懐かしんだ。
当時、デイリーの広島支社でカープを担当していた僕は、PL学園~青学~東芝というエリート街道で阪神入りした坪井という鬼才のことが気になって、連日、紙面で彼の打撃成績に注目していた。
「甲子園球場の監督室に一度だけ呼ばれたことがあるんですよ。
『お前のような足の上げ方で打つと、どうしても確率が悪くなる。すり足で打ったらどうや』と…」
で……何と?
「『できません』と…。打てない時期だったんですけど、シーズンの最中だったので…。『オフに試行錯誤したいと思いますけど、今はできません』と答えました」
坪井といえば、盟友イチローを参考にした「振り子打法」で当時阪神の新人安打記録を塗り替えた男。知将の勧めにも「首を振る」プロの矜持を、天国のノムさんも懐かしんでいるかもしれない。
この日、半旗が掲げられた宜野座で「野村阪神」を想い、坪井のような男を探す…。=敬称略=