遊撃手のプライド

 【3月5日】

 ドン・ブレイザーは迷いのない口調で告げたという。

 「ファーストへいってほしい」

 藤田平は淡々と答えた。

 「そうですか。分かりました」

 今から38年前。1979年、春のことだ。前監督、後藤次男の方針で78年からファーストでの起用が増えていた藤田はコンバートに感づいていた。後藤の退任後、阪神の第20代監督に就任したブレイザーが西武との大型トレードを敢行し、新加入の真弓明信を開幕ショートに指名する。入団時からショートが定位置だった藤田は当時プロ14年目。体力の衰えはあったにしろ、78年は打率・301を残し、208打席連続無三振の日本記録(97年にイチローが更新)を樹立するなど打力は健在だった。職人肌だけに名手としてこだわりは強かったはずだが、それ以来、84年に現役を引退するまでショートへ戻ることは二度となかった。

 阪神の名ショートと言えば吉田義男。その吉田をセカンドへ押しやる格好で入団2年目にショートのレギュラーに就いたのが藤田だった。小柄で華麗な守備から「牛若丸」の愛称で親しまれた吉田が自らの技量や心得を唯一指南した後輩が藤田だと言われている。

 「阪神の先輩から『吉田さんは誰にも教えない』と聞かされていたので驚いたよ。俺を後継者として認めてくれたから色々と伝えてくれたと、後になって聞いたな」

 藤田はそう語ったことがある。

自身がブレイザーからコンバートを言い渡されたとき、10数年間ショートを守ってきたプライドは「もう、あの時はそれほどなかった。真弓をショートにするという方針が分かっていたから」と振り返る。ファーストが主戦場になった藤田は後進の育成にも時間を割くようになったという。82年に真弓の後継として明大から平田勝男が入団すると、自らノックして指導。83年にはセカンド岡田彰布の故障もあり、今度は平田が真弓をセカンドに回す形でショートのレギュラーを奪った。藤田は言う。

 「吉田さんがそうであったように、阪神のショートはそうやって引き継いできた歴史がある」

 この日、試合前の練習をベンチから見守った藤田は金本知憲と握手し、「頑張って」と伝えた。時間にして、その少し前だろうか。グラウンドでは鳥谷敬がセカンドで打球を追っていた。前日ヘッドコーチの高代延博から事実上のコンバートが言い渡されたという。

 「鳥谷が北條に守備を教えているの見たことあるか?本気で教えたことはないんじゃないかな。それは鳥谷自身がまだまだ北條には負けていないと思っている証拠だと思う。これからどうなるか分からないけど、鳥谷はそういう思いを大切にして頑張ってほしい。ショートでずっとやってきた鳥谷の気持ちはよう分かる。ショートがどんな場所か、それはやったことのある者にしか分からないから」

 名手にして生え抜き唯一の2000本打者は甲子園のベンチ裏で僕にそう話した。大切な後継者のプライドを思いやるように。=敬称略=

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