阪神・漆原 桐敷のような「不動心」で「生かすも殺すも自分次第。負けないように頑張れ」 新潟医療福祉大・佐藤総監督エール
新潟医療福祉大野球部・佐藤和也総監督(67)が28日、教え子の阪神・漆原大晟投手(27)にエールを送った。同校は桐敷拓馬投手(24)の母校でもあり、佐藤総監督は2人の共闘を熱望。教え子の漆原には「不動心」という言葉を送り、桐敷のような強いメンタルでマウンドに上がることを願った。
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最初の出会いは新潟明訓だった。当時は同校の監督だった佐藤総監督は、漆原を兄の大夢さんに続いて指導することになった。「当時は細くて、まだ子鹿みたいな感じでした」。野球の素質は十分。成長途上ではあったが期待も込めて1年夏からメンバー入りさせた。
大夢さんは後に日体大で4番を打つほど体が大きかった。ただ、漆原は思ったより伸び悩む。佐藤総監督は13年で新潟明訓を退任し、漆原への指導は1年で終わった。3年夏も地区予選で敗退。しかも、背番号1をもらうこともできなかった。
この時、漆原の選択は野球を辞めること。13年春から新潟医療福祉大の初代監督に就任していた佐藤総監督はその話を聞くと、新潟明訓の監督に伝えた。「もったいない。うちでやるように言ってくれないか」。漆原は再び野球をすることを決断。この深い縁がなければ、今の漆原はいない。
大学では体も大きくなり、最速150キロを計測するまでに進化。1年秋にはリーグ新記録の11者連続奪三振を記録するなど、エースを任されるまでになった。18年の育成ドラフト1位でオリックスに入団。プロへ導いたのは同校の新ブルペンではないかと、佐藤総監督は言う。「漆原が4年の時に、6人が立てる素晴らしいブルペンができた。そこで(プロに)見てもらうことができた」。その後、桐敷もそのブルペンで成長を遂げた。
球は一級品。支配下へと上がるのも早かった。だからこそ、佐藤総監督は指摘する。「いい時と悪い時の差がある。投球に粘りがない」。打たれ出すと止まらない、一打で歯車が狂う。大学時代から何度も見てきた。
そんな佐藤総監督がうなり、手本にしてほしい投球がある。昨季の日本シリーズ第7戦の九回。桐敷がマウンドに上がり、紅林と対決した場面だ。フルカウントから2球ファウルで粘られながら、最後は直球で右前打。結果だけ見れば、桐敷の負け。しかし、佐藤総監督はテレビの前で拍手を送った。9球全てで直球を選択。四球もある中、最後まで逃げなかった。
「大学1、2年の頃だったら絶対に四球を出して、ピンチを広げるような投手だった。あそこで直球を投げて、これしか打てないというようなライト前。本当に成長したなと思いましたね」
四球で崩れなかった。そして、次打者を併殺打。「野球の神様に通じたゲッツーだったと思う」。桐敷を褒めると同時に、もう一つの感情も芽生えた。「ウルシ、見たか!と思いました」。漆原に求めたのは「不動心」。マウンドでの度胸、心の揺さぶりをなくすこと。これを体現したのが桐敷の9球だった。
年末に漆原から移籍の連絡が来たという。「すごいチャンスだと思う。生かすも殺すも自分次第だから、桐敷に負けないように頑張れ」。短い言葉に思いをぶつけた。偽りなく、最高の転機だと感じている。
そして、楽しみも増えた。「ぜいたくは言いません」と笑ったが、漆原から桐敷へのリレーや2人でのお立ち台…。夢は広がる。「寿命があるうちにやってくれたらいいですよね」。優しい声だった。「2人で切磋琢磨(せっさたくま)して、1軍にこだわってやってほしい」。プロ野球人生の第2章。佐藤総監督はウルシならやれると信じている。
◆佐藤和也(さとう・かずや)1956年8月31日生まれ、67歳。新潟明訓の野球部監督を経て、2013年に創部された新潟医療福祉大野球部の監督に就任。20年からは総監督。同大から笠原(元中日など)、漆原、桐敷(ともに阪神)、佐藤琢(ソフトバンク)をプロに輩出した。
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