引退の糸井 小3の夏に見た「背番号7」に心が震えた 涙が止まらなかったトレード通告

 打席にバットを置き、おじぎする糸井(撮影・田中太一)
小学3年生の頃、家族とともに甲子園球場で阪神対巨人戦を観戦した糸井(左端)。中央は母。両隣は弟(家族提供)
糸井が子どもの頃観戦した巨人戦で、プロ通算250号を放った真弓=89年7月23日
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 阪神・糸井嘉男外野手(41)が21日、甲子園球場で行われた広島戦の試合後に引退セレモニーに臨んだ。日本ハム、オリックスを経て、現役最後は幼い頃に憧れた阪神でプレー。〝超人〟の脳裏に今も残っているのは、小学3年生の時に目にした甲子園で活躍する「背番号7」の姿だった。

  ◇  ◇

 引退会見前の控室。スーツ姿の糸井は、ユニホームを着ることに少しだけ抵抗しているように見えた。「カネ(金本)さんも?マジ」。嫌だったわけじゃない。引き際を決めた上で、まだ現実を受け入れられないでいた。だが数分後、壇上では晴れやかな表情を見せる。求められてきた「超人」を貫いた。

 「最後だと思うとさみしいね。また着たくなるやろな」。鏡の前に立ち、何度も着こなしを確認する。「背番号7」。そんな背中に少し昔話を思い出した。

 小学3年生の夏休みのことだ。家族で初めて甲子園球場に向かった。超満員のアルプススタンド。日曜日の伝統の一戦で真弓明信がアーチを架けた。「背番号7」に心が震えた。今でも脳裏に浮かぶ記憶。プロ野球選手になりたいと思った-。

 こんな話を聞いたのは20年の春季キャンプだ。新型コロナウイルスが猛威を振るう直前。練習後、2人で食事に行く約束をした。が、こんな日に限って仕事が終わらない。予定より1時間以上、遅れた。「暇で待ってる間に素振りしてたら、むっちゃいい打ち方見つけたわ。ありがとな」。ようやく合流しての第一声、怒るどころか感謝の言葉だ。いつだって、そんな人だった。

 予約した店まで、僕がコンパクトカーを運転したあの日。窮屈そうに後部座席に座った超人は、いつになく野球の話に冗舌だった。「あれだけ泣いたのは、小学生の頃以来だったかな。そんなつもりはなかったんやけど」。日が沈んだ沖縄の海を横目に、日本ハム時代を思い返していた。

 稲葉、新庄、坪井、森本…。12球団屈指の外野争いを制し、ついにレギュラーポジションを勝ち取った。チームを2度のリーグ優勝にも導き、名実ともにスター選手として君臨。幸せな野球人生が続いていく。そんな思いで迎えた13年。春のキャンプ目前に、球団から呼び出しを受けた。

 直前、八木からトレード移籍の電話を受け、「新天地で頑張れ。また対戦しような」と激励した直後のことだ。待っていたのは栗山監督と山田GM(いずれも当時)。思いもしなかった通告だった。八木とともに、木佐貫、赤田、大引との交換トレード。「俺も一緒に行くことになったわって、八木にまた電話したわ」というのは後の笑い話だが、直後は頭が真っ白になった。

 「自然と涙があふれた。俺がそんな姿を見せるから、監督もGMも泣いてね。みんなで泣きながら頑張って来いって」。投手では使えない-と、挫折から始まったプロ野球人生。栄光を知り、再び絶望を見た。それでも見返してやると、オリックスで首位打者と盗塁王のタイトルを獲得。反骨心が原動力だった。

 いつしか代名詞になったフレーズ。ファンの憧れ、期待に求められるまま、突っ走ってきた。「超人でいるために頑張ろうってね。自分を奮い立たせてくれる言葉だった」。右肩2カ所に膝、左足首にもある手術痕は、限界に挑戦し続けた野球人生の勲章だ。超人、卒業。超人、引退-。球史に記録と記憶を残した男が、涙でユニホームに別れを告げた。(2006、08~12、17~20阪神担当・田中政行)

 ◆糸井 嘉男(いとい・よしお)1981年7月31日生まれ、41歳。京都府出身。188センチ、99キロ。右投げ左打ち。外野手。宮津から近大を経て、2003年度ドラフト自由枠で投手として日本ハム入団。06年に野手転向。07年3月27日・オリックス戦(京セラドーム)でプロ初出場初先発(8番・左翼)。13年オリックス移籍。17年FAで阪神移籍。首位打者・盗塁王各1回、最高出塁率3回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞7回。13年WBC日本代表。

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