【ターニングポイント1】原口、今も胸に帝京魂 10年前の前田監督の言葉が道標

 人は長い人生の中で、幾度となく岐路に立つ。そんな時に何を思い、感じ、行動したのか。虎戦士がプロに入るまでのきっかけに迫る。「ターニングポイント」は原口文仁捕手(27)。大腸がんの手術から奇跡的な復活を遂げたシーズン。その軌跡に母校の“帝京魂”は欠かせなかった。「甲子園球児になりなさい」。恩師・前田三夫監督(70)の言葉が夢をつないだ。その1。

  ◇  ◇

 都内の閑静な住宅街を歩く。その一角に、原点の場所はある。流した汗と涙は、今も土深くに眠るだろうか。“あの夏”から10年たってなお、ここでノックバットを握るのが、原口の恩師、帝京野球部監督の前田だ。春夏通算26度の甲子園出場へと導いた名将。耳に残る言葉がある。

 「甲子園球児になりなさい」

 前田がまだ青年監督時代、勝利至上主義だと非難されることもあった。ただ、その執念は幾多の教え子の道を拓(ひら)き、今も心に刻まれている。「帝京じゃなければ原口文仁はいない」。そんな教え子の感謝を伝えれば、前田は「実はね…」と、この言葉に込めた思いを明かした。

 「甲子園が全てじゃない。でもね、僕は生徒たちの涙を見るのが、一番つらいんです。何とも言えない苦しいものですよ。途中で負ける彼らの姿がやりきれない。あれを見たくないからね。最後に、泣いて高校生活を終わらせたくないんです」

 幾人もの涙が伝統を築いてきた。「いつから呼ばれるようになりましたかね」。前田は遠くを見つめながら照れ笑いする。帝京魂。それはまさに、原口を形容する言葉だ。捕手として野球人生をスタートさせたが、腰痛を抱えていた中学時代は4番で一塁。帝京入学後は外野を守った。だが、ノックをすれば球に追いつけない。三塁、投手と転々とした。

 転機は新チームになった1年秋だ。同級生に捕手は3人いたが、1人が早々に退部。さらに内野コンバート、故障離脱で上級生1人になった。「誰かキャッチャー経験はないか?」。監督の問い掛けに、勢いよく右手を挙げた。導かれるような巡り合わせだが、不思議と原口には確信があった。前田もまた、適性を見抜いていた。

 「外野でダメで、内野でもダメ。でも彼は、へこたれないんですよ。普通、諦めもつくんですけどね。真面目さが技術を磨くんです。そこから帝京は不思議と、投手が育つようになったんですよ」

 1学年下に山崎康晃(現DeNA)、2学年下に伊藤拓郎(元DeNA投手)。内外野の守備に特筆する才能はなかったが、原口には努力できるハートがあった。何より捕手が好きだった。小3の冬。父・秀一さんに連れられ、初めて神宮で巨人戦を観戦した。ネット越しに見た阿部慎之助の姿に、捕手として生きていく道を決める。初めて買ってもらったのはキャッチャーミットだった。

 毎日、ミットを抱えて寝床に入る。実家のある埼玉・寄居町から、帝京まで片道2時間の通学。父が最寄りの駅まで車で送り、母が米3合の弁当を作る。祖母は泥だらけのユニホームを夜中に洗った。「フミがまたグラブ持って寝てる」。姉の驚く声に、家族が笑顔になった。原口の夢は家族の夢でもあった。運命が味方した捕手再転向。前田には「勝ち方を教わった」という。

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