大台に乗ると人は何を求めるのか~50周年の岡林信康は「過去の総括と原点確認」

50周年の大台に乗った岡林信康。自身の半世紀を語った=東京・EXシアター六本木(撮影・岩本健吾)
かつての盟友・細野晴臣から岡林信康の50周年に贈られた花=都内
美空ひばりの思いがこもった花と細野晴臣の花が並んだ会場ロビー=都内
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 年が改まると“何周年”といった「数字」を意識する。それがキリのいい数字であれば「大台」になるが、ヤフー検索の調べによると、今の時期に「大台に乗る」というワードで検索するユーザーが増えるという。そこで、ある伝説的なミュージシャンが「50周年」の大台に乗ったことを受け、どのような境地に達したのかを検証した。(本文敬称略)

 今回の登場人物は岡林信康。1968年に東京・山谷の日雇い労働者の日常を歌った「山谷ブルース」で衝撃デビュー。名曲「友よ」などで“フォークの神様”と称され、72歳の今も現役であり続ける。師走の夜、50周年ツアー最終日となった都内の会場で、岡林は半世紀の音楽人生を語り尽くした。そのテーマは「変節」だった。

 (1)滋賀の教会で牧師だった父の跡を継ぐべく、同志社大学神学部に進むが、山谷の厳しい現実を体感したことを機に「俺は世間知らずの甘ちゃんや」と大学を中退し、フォーク歌手になった。

 (2)ボブ・ディランと同様にロックへの転向を志して活動拠点の滋賀から上京。70年に「はっぴいえんど」をバックバンドに活動したところ「ファンが半分くらい去った」。

 (3)挫折から滋賀に引きこもっている間に作った演歌の曲をカセットテープに入れて東京の友人に送ったところ、巡り巡って美空ひばりに認められ、「月の夜汽車」と「風の流れに」の2曲が採用された。大谷翔平の二刀流ばりの存在になったはずが、「ロックで半分になっていたファンをさらに失った」。

 (4)ピンク・レディーに影響された歌謡ポップス、加藤和彦と組んでのテクノポップ、キング・クリムゾンのロバート・フリップから投げかけられた「日本のロックをやれ」という言葉に触発されて江州音頭など民謡をベースにした「エンヤトット」へ。「音楽スタイルを変えるたびにファンはゴソッといなくなる。それでも奇特な人が会場にいる。奇跡だ。よくぞ見捨てずにいてくださった」。

 以上の点から導かれる「大台あるある・その1」は「過去を総括したくなる」である。

 続く「その2」は「ルーツの確認」だ。

 岡林は自身の変節について、父と祖父から受け継いだ遺伝子を理由に挙げた。新潟の農村から40歳を過ぎて牧師となって滋賀に教会を建てた父。淡路島から大阪に出て呉服屋として成功しながら、結核治療のためのドイツ式太陽光線治療器を開発して療養所を作った祖父。今まで築いたものを破壊して全く新しいものに取り組む「血」を自身にも認めた。

 「その3」は「かつての盟友や亡き恩人の遺族から思いが届けられる」ということか。

 自虐的に語り尽くした50年史だが、細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂、松本隆の4人が在籍した「はっぴいえんど」と美空をパートナーにしたボーダーレスな実績は唯一無二。ロビーには細野、ひばりプロダクションの加藤和也社長から届いた花が並んで飾られていた。

 「50年間、いろんなジャンルに首を突っ込み、音楽表現をぶっ壊し続ける人生だった」。大台に乗ると、人は人生を語りたくなる。(デイリースポーツ・北村泰介)

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