築103年、福島県の歴史遺産「本宮映画劇場」~カーボン式映写機で上映中

 映画館がシネコン主流となり、全国で“おらが町の映画館”が次々と閉館していく中、福島県のほぼ中央に位置する本宮(もとみや)市には築103年の建物を維持し、おそらく日本で唯一稼働しているカーボン式映写機で上映を続ける80歳の映画館主がいる。「本宮映画劇場」の田村修司さん。その「映画館と共に生きる」姿を追って、現地を訪ねた。(文中一部敬称略)

 JR本宮駅を降りると、ロータリーに「ふくしまのへそのまち」と記された石碑がある。そこから3分ほど歩き、車道を曲がると、路地裏にたたずむ、ピンク色のモダンな歌舞伎座風の木造3階建てが目に飛び込んできた。館内に入ると、1階客席には木製椅子席が96席。2、3階にはかつて桟敷席があった。壁には往年の映画や浪曲などの興行ポスター。時間が止まった。

 前身は第1次大戦が勃発した1914(大正3)年に建てられた「本宮座」。第2次大戦後の47(昭和22)年に「本宮映画劇場」と改称し、映画だけでなくスクリーン前の舞台で浪曲や歌謡ショー、大衆演劇、ストリップ、女子プロレスの興行も行われた。田村さんは56年、亡くなった父の跡を20歳で継いだ。

 少年時代から“定点観測”した同劇場の芸能史を証言する。

 「梅沢富美男さんのお父さん、お母さん(梅沢清劇団)がここで芝居やってたんだ。昭和18年から22年まで。富美男さんは25年生まれだから生まれる前の話。うちで食事も布団も用意して役者さんが寝泊まりしてね」

 2度目の東京五輪が近づき、存在がクローズアップされる三波春夫さんも同劇場に出演していた。「三波春夫が『南條文若』って浪曲師だった頃には月に1回、うちに来た。浪曲より余興の歌の方が評判よくて1年後には大入り満員でね。村田英雄、春日八郎、松山恵子、菅原都々子…。みんな来られましたよ」。映画は新東宝と松竹を上映。「よそは日活の裕次郎と小林旭と赤木圭一郎で大入りなんだけど、うちは新東宝の宇津井健と丹波哲郎だから(興行的には)ダメだった(笑)」

 テレビの普及で客足が徐々に遠のき、63年に閉館。田村さんは家族を養うため自動車販売会社に就職したが、建物は壊さなかった。

 「定年退職したら映画館を再開しようと思ってたから。フィルムやポスター、機械の部品もスペアで買っといたの。ところが会社を辞めたら周りは高齢化で映画館に来る人もいなくて、浦島太郎みたいになっちゃった」

 それでも映写機に油を差す日々が続いた。「昭和38年に映画館をやめてからも50年以上、映写機の面倒見てっから。自動車と同じで乗らなきゃ動かなくなっからね。毎日掃除して磨いてんだ」

 2008年、知人に頼まれて45年ぶりの上映が実現して以来、不定期にイベントを続ける。09年の終戦記念日には館内で発見された戦時中の実写フィルム「真珠湾攻撃と硫黄島」を上映。17年の黄金週間には地元の子どもたちのためにアニメ映画上映会を開いた。

 いつしか歴史遺産となった映画館そのものが“作品”になっていた。近年、若い世代のファンが全国から見学に訪れる。15年には写真家で編集者の都築響一氏の案内で爆笑問題が取材に訪れ、NHKで特集放送された。

 「爆笑問題がうちの玄関に入って来た時、あの2人は『何これ!?』って、この空間にビックリして足が進まなかったよ。よろめきドラマと踊りの映像を見せたら、『これはアカデミー賞もんだ!』なんて喜んでくれてね」。屈託なく笑った。

 筆者が訪れた際は、半世紀ほど前のピンク映画の断片を独自に編集したフィルムが、今年で“還暦”を迎えた57年製のカーボン式映写機で映された。細長い炭素棒に電流を流して発光させ、パートカラーのハイライトシーンを繋いでオールカラーの1本に再構築した“田村リミックス映像”が映し出された。

 「日本でここしかないフィルム。ワンカット、ワンカットが面白いでしょ。無駄がないもの。全部いいとこばっかりで」。さらに巨匠・小津安二郎監督の遺作「秋刀魚の味」の予告編も上映。小津組の助監督が撮った“演出中の動く小津監督”に目を奪われた。「口直しに映したんだ。『ロクな映画しかやらない』って評判悪くなっちゃうから(笑)」

 東日本大震災で甚大な被害を受けた福島県で孤塁を守る“路地裏のシネマパラダイス”。田村さんは今後もマイペースで映写機を回していく。(デイリースポーツ・北村泰介)

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