2016年10月20日に53歳の若さでこの世を去った平尾誠二さんは、伏見工業時代の1980年度に全国制覇を達成している。その軌跡はドラマ「スクール⭐︎ウオーズ」として描かれた。2026年5月29日には、平尾さんの恩師で「泣き虫先生」と呼ばれた山口良治さんが83歳で他界。2人のことをよく知る人で、伏見工業(現京都工学院)でラグビー部監督、校長を務めた高崎利明さんに話を聞いた。連載の最終回
高崎利明さん
「スクール⭐︎ウオーズ」で描かれた全国制覇
平尾さんとハーフ団を組んだ元伏見工監督
〈序章〉
京都御所の木々はうっすらと色づき始めていた。
10年前のちょうど今ごろ。
京都に吹く風は少し肌寒く、鉛色の空が広がっていた。
御所から細い路地を入ったところに「喫茶茶の間」はある。
通りに面した窓際の席にいつも、その人は座っていた。
教え子の平尾さんがこの世を去った日。
先生は泣いていた。
「平尾にはたくさんのことを教えてやろう。
そう思っていた。
いつか、日本を代表する選手になるやろうー。
そう信じていたから。
ただ、1つだけ教えてやれんかったことがある。
親より早く逝ったらアカン!
僕よりも早く逝ったらアカン!
1番大事なことを、教えてやることができんかった」
あれから10年の歳月が流れ、先生は教え子を追うかのように旅立った。
2人をよく知る高崎さんに、久しぶりに話を聞きたい。
そう思って連絡を取ったが、私に何が書けるのだろうか。
46年も前、まだ高校生だった平尾さんと高崎さんは、伏見工業でハーフ団を組んでいた。
1881年の元日にあった全国高校ラグビー(花園)の西陵商業戦で、SH(スクラムハーフ)の高崎さんが肩を亜脱臼。
その次の準々決勝・秋田工業戦で今度はSO(スタンドオフ)の平尾さんが左太ももを筋断裂した。
2人を信頼し、それでも決勝(大阪工大戦)の舞台へと送り出したのが監督の山口先生だった。
「伏見工業伝説」(文藝春秋)において、高崎さんは当時のことをこのように振り返っている。
「僕がここに動いた時には、もう平尾はそこにいる。ここにおって欲しい、そうすればいい流れでパスが出せるというところに、おるんです。あうんの呼吸なんでしょうね。それに、大観衆でどんなに周りがうるさくても、平尾の声と、グラウンドの横で山口先生が出す指示だけは聞こえてきた」
固い絆で結ばれている。
あの時も、そして、今も。
彼らが歩んできた道のりを。
そして、今、何を思うのかを。
私が描くよりも、もっとリアルに伝わる方法を探していた。
お願いをしたのは、高崎さんに書いてもらうことだった。
2人の出会いは中学の「オール京都」だったという。
これは、半世紀も続く「絆」。
友への思いー。



