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地下鉄サリン事件で見た「化学兵器」の恐ろしさ…治療した医師の思い

 「町医者の独り言・第17回」

 22年前の3月20日。阪神・淡路大震災から2カ月ほど経っていました。当時、20代後半の私は東京・秋葉原にある三井記念病院に勤務していました。

 「内科の先生は至急、救急外来に集まってください!」

 診察、手術が始まる午前9時前の病院内で、全館放送がけたたましく鳴り響きました。しばらくすると「麻酔科の先生は至急救急外来に集まって下さい!」と再び放送が。尋常ではない事態が救急外来で起きていたことはすぐに想像できました。外科医だった我々も呼ばれるのは時間の問題だろうと思っていた矢先に「外科の先生は至急救急外来に集まってください!」と全館コールが掛かかりました。

 7階にある医局から一気に階段を下り、救急外来に我先にと外科医の一団も駆け込みました。1階の救急外来、そして待合室は、すさまじい状態でした。病院という場所で遭遇したことがなかった、もちろん今でも経験したことのない凄惨な状況だった。原因不明の毒物か、ガスか、薬物か…何かわからないものに苦しむ患者さんでフロアは埋まっていました。映画などで見る“戦場”のような光景でした。

 気分が不快でうずくまっている人、毛布にくるまっている人、嘔吐している人、意識がない人…重症度は様々でした。ただ、あまりにも受けた衝撃が強く、慌ただしかったせいか、細かい様子までは思い出すことはできません。

 これは、日本の歴史にも残る痛ましい出来事、地下鉄サリン事件の日のことです。この事件のとき、私が当時いた病院に多くの被害者が運ばれてきました。医師、看護師、事務員、病院全体が一丸となり、原因不明の中毒で苦しむ患者さんを救おうと治療に臨みました。

 当時医師になって2年目だった私は、何人の患者さんを診て、どのように動いて治療に携わったのか細かい記憶は定かではありません。とにかく必死でした。先輩医師の指示を受けて、重症度が高い患者さんを優先に点滴したり、気管挿管を施行して人工呼吸器につないだり、中心静脈の確保をして循環動態の安定をはかったり…できるのは対症療法のみ。運ばれてきた患者さん、目の前で苦しむ人たちに、最善と思える可能な限りの処置をしていくしかなかったんです。本当に何が起きたかさえ分からない状態でしたから。

 病院の日常業務は全てストップしていました。当日の外来は中止となり、麻酔がかかっていた患者さんも覚醒させ、手術も延期されたはずです。小児科病棟にいたほとんどの患者さんには退院という形をとってもらい、重症の患者さんを集中治療室にあげて、開かずの窓を全開にして治療に臨みました。「サリン」による被害だと完全に判明したのは、午後3時前だったように記憶しています。サリンの解毒剤であるPAMを重症の患者さんに投与しましたが、残念ながらお亡くなりなった方もおられたはずです。

 私は朝から、目の前にいる患者さんを治療し続けました。途中食事を摂ったか、休憩をしかたなど全然、覚えていません。ただ、病院内を動き回り、ひたすら手を動かすしかなかったんです。

 ようやく帰宅したのは、夜中2時前でした。玄関で待っていた妻に「目が真っ赤になっている…」と指摘されました。鏡で見てみると、確かに赤かった。真っ赤です。救命処置にあたった医師全員は少なからずサリンを吸入していて、その影響でしょう。しかし、不思議と怖さは感じなかった。診察直後は交感神経優位でアドレナリンが出ている状態だったと思います。本当の恐怖にうち震え、激しい憤りを覚えたのはすべてが判明してからでした。

 あれから20年以上が過ぎました。未だに多くの人が苦しんでいます。後遺症で悩まれている人たち、辛い思いで日々を過ごされている御親族がたくさんおられます。事件の“解決”はできておりません。化学兵器は本当に恐ろしく、罪深いです。こんなものを、人間が人間に対して使っていいはずがない。二度と起きてはならない、起きてほしくない…マレーシアでの事件を新聞、テレビを見て、改めて当時を思い起こしました。

 ◆筆者プロフィール 谷光利昭(たにみつ・としあき)たにみつ内科院長。1969年、大阪府生まれ。93年大阪医科大卒、外科医として三井記念病院、栃木県立がんセンターなどで勤務。06年に兵庫県伊丹市で「たにみつ内科」を開院。地域のホームドクターとして奮闘中。

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