【野球】熱烈阪神ファンの屋鋪要氏が岡田監督を祝福「いい指導者がいいチームを作る。それを結果で表した」

 大阪生まれで兵庫育ち。元プロ野球選手で虎党を自認する屋鋪要さん(64)が、阪神の18年ぶりとなるリーグ優勝を喜んだ。

 横浜大洋ホエールズで16年、巨人で2年現役生活を送ったが、心の中はいつもタイガース。「子供のころからのファンだし、とってもうれしい」と祝福し、「大洋や巨人には何の思い入れもない」と言い放つ。

 岡田監督が指揮を執るからなおさらだ。現役時代、甲子園球場に近い焼き肉店で何度も野球談議をした間柄。遠征中に誘いを受けると試合後、いったん大阪の宿舎に戻ってから出直し、深夜まで続く野球の話に熱がこもった。

 「呉越同舟ですけどね。個人的に大変お世話になった人です」

 屋鋪さんは三田学園3年生最後の夏を終えると、同校卒業生で早大野球部の先輩を訪ねて、夏合宿を張る軽井沢まで足を運んだことがあった。

 不在だった先輩に代わり、食堂で隣に座って相手をしてくれたのが当時2年生の岡田彰布。この時の縁が球界入りしたあとも続いたという。

 「岡(田)さんはインタビューを受けているときと同じ。あのまんまの人。気取らんし。僕はいい指導者がいいチームを作ると思ってます。いい選手が集まっても勝てないチームは、いくらでもありますから。(力量は)今回の結果に表れていると思いますよ」

 屋鋪さんはドラフトにかからなければ、早大に進学することになっていた。セレクション合格の件は巨人移籍後に知ったというが、そんな事情を抜きに「岡さん」とは良好な関係を築いていった。

 今でも脳裏に焼き付いて離れない少年時代の記憶がある。1968年9月18日。巨人との優勝争いが佳境を迎えていたころ。9歳の屋鋪さんは父親に連れられ、ダブルヘッダーで組まれた甲子園球場でのTG戦を観戦した。第1試合を村山実の熱投で勝った阪神がゲーム差「0」に縮めて迎えた第2試合だった。

 父の影響ですでに虎ファン。これがリーグ優勝を左右する“天王山”であることを理解し、グラウンドで戦う選手へ必死に声援を送っていると、突然大乱闘が始まった。

 不穏な空気は子供ながらに感じていた。ジーン・バッキーが王貞治に“危険なボール”を2球続けて投げたからだ。王がマウンドに歩み寄るのを合図に、両軍ベンチが空っぽになるほどの大騒ぎとなった。

 バッキーと荒川博コーチが退場処分を受けると、「王退場!」のシュプレヒコールでスタンドも騒然。再開直後、今度は権藤正利が王の右耳後部に死球。昏倒して動かない王。救急車の到着。長嶋茂雄のホームラン-。

 「あぁこれがプロ野球か。王選手、大丈夫かなぁ。長嶋選手って、すごいなぁ。でも、巨人は嫌いやな」

 伝統の一戦は合戦さながらの迫力で、子供には刺激の強すぎる試合だったが、プロ野球選手への思いはさらに強まった。

 小学校の卒業文集に「将来の夢」のタイトルで、「僕は将来プロ野球選手になる。阪神タイガースに入って野球をやる」と書き、タイムカプセルに入れて埋めたという。

 夢は半分叶った。好きな阪神には入れなかったが、6位指名を受けて入団した大洋ホエールズで、3年連続盗塁王を獲得するほどの選手になった。

 その3年連続の3年目、1988年のシーズン。憧れだった村山実の思いがけない談話に感動したという。

 4月26日。甲子園球場で行われた阪神-大洋戦で、掛布雅之が放った左中間への飛球を追い、センターの屋鋪とレフトのパチョレックが激突。芝生は血で濡れ、2人とも救急車で病院へ運ばれた。

 屋鋪は脳しんとう。7センチの前額部裂創で10針の縫合。入院した。パチョレックも額を3センチ切り、3針縫った。

 「医師からは10日間安静にするように。縫ってるから無理したら裂けるよと言われたんですが、次の日の試合に出ましてね。さすがに試合中フラフラしてきて」

 古葉竹識監督の指示で途中からベンチに退いたが、この“根性”を村山監督は見逃さなかった。

 大洋のケガ人2選手が強行出場した27日。阪神は試合中に右足をスパイクされながら投げ続けた伊藤文隆の“敢闘精神”がサヨナラ勝ちを呼んだ。試合後、村山監督は涙を流しながら言った。

 『深い傷やった。スパイクの中は血だらけやった。(伊藤は)屋鋪、パチョレックを見習って、よく投げてくれた』

 少しだけだが、自分の名前が出た。スーパースターの村山実が褒めてくれたのがうれしかった。

 血染めの芝生と血みどろのスパイク。阪神ファンの屋鋪さんには忘れられない試合になった。

 数年前からラベンダー栽培を始め、講師としても活動してきた。少しイメージが合わないが、「美しいものが好き」という屋鋪さんは横浜山草会の会員でもある。

 切手収集、プラモデル作成、落語鑑賞、ペーパークラフト…多趣味で研究熱心、どんどん掘り下げていくうちに、まるで専門家のようになっていく。鉄道文化人としてのSL撮影という趣味が人脈を広げ、新たな仕事を生む。今では「先生と呼ばれるようになった」と言って笑う。

 「まさか60歳過ぎてね。メッチャ面白い人生ですよ。楽しいなと思えるのが一番。もっともっと幸せになりたい」

 現在は社会人軟式野球、ソレキア株式会社の監督を務めている。少年野球の指導もしているから結構忙しい。

 かつての野球選手がプロ球界を離れ、ひとりのファンに戻って野球を楽しみ、趣味の世界に没頭する。「後半生の方が長い」からこそ引退後の今を大切にしているという。

 先生と呼ばれ、監督と呼ばれ…屋鋪さんの人生は、これからが本番なのかもしれない。

(デイリースポーツ・宮田匡二)

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