【野球】神戸学院大付、報徳OB岩上監督の「全員野球」香川西では春夏5度甲子園へ

 香川西を春夏通算5度の甲子園出場へ導いた岩上昌由監督(41)が、16年1月に軟式から硬式へ移行した神戸学院大付(兵庫)を率いている。高校時代は報徳学園でプレーし、同校の前監督・永田裕治氏(54)の1期生の主将だった。恩師から学んだ「全員野球」をモットーに、チーム作りに取り組んでいる。

 環境が変わっても理想は変わらない。目指すチーム像は原点にある。岩上監督は一貫した信念を持って、神戸学院大付で指導にあたっている。

 「私の指導の根本には報徳野球がある。報徳野球、永田野球は何かと言うと、みんなで頑張る全員野球。永田監督は子供を大切にするということを、奥底で持っていると感じる。僕もここでも分け隔てなく、みんなでチームを作っていきたい」

 永田氏には高校3年間、コーチと監督として指導を受けた。神院大4年春で現役引退後は、母校で恩師をサポートした。選手側と指導者側で全員野球を学び、大学卒業後の99年に香川西へ赴任。01年から監督となった。

 香川西では赴任から退任するまで15年間、寮に住んだ。約100人の部員と寝食をともにして、野球漬けの生活を過ごした。「1つの目標に向かって、全員で頑張る雰囲気は作ることができるんだ、という自信を持てた」。結束力を武器に、甲子園には03年の初出場を含む春夏通算5度の出場を果たした。

 だが、聖地では06年夏に挙げた1勝のみ。「出場を重ねるたびに、自分の無力さが分かった。この先も甲子園に行ったとして、その先に何があるのか見えなくて…」。13年に退任。北は青森、南は宮崎など10校以上から声が掛かる中、14年から岡山理大付のコーチに就任した。

 3年後に母校・神院大の付属校から誘いを受けると、「愛校心があるし、野球を通じて学校を発展させたい思いがあった」。17年4月に同校の顧問に就任。今夏の兵庫大会で敗戦後、監督となった。

 指揮を執って約5カ月が経過した。これまでと180度違う環境に試行錯誤の日々が続く。部員30人(マネジャー4人を含む)で、選手寮はない。学校近隣の専用グラウンド周辺には、マンションが立ち並び、朝晩は大声などによる騒音にも気を配る。現在の2年生は硬式に移行することを知っていたが、岩上監督の就任は知らずに入学しているため、意識に温度差もあった。

 それでもスタイルは変えず、情熱を持って生徒と向き合ってきた。生活面は厳しく指導。練習では声を張り上げ、丁寧に動きも実演する。少しずつ選手の意識は変わってきた。

 主将の本木淳也内野手(2年)は「最初は戸惑う選手もいた。でも、社会で必要なマナーを教えてくれるし、野球は過程として積み重ねが大切だと言ってくれる。監督のおかげで遊ぶ喜びより、野球で勝った時の喜びは全く違うと思えるようになった」。新チーム発足後、選手は軟式時代にはなかったミーティングを自発的に始めた。自主的に朝練する選手や、休日返上で練習する選手も出てきた。

 岩上監督に選手の成長が、今までとは違う自信となっている。「それぞれの学校に風土があるので合わせつつ、考えながらやっている。今の選手は僕の1期生。この学校に来てよかったと思ってもらいたい」。神戸学院大付の監督として迎える初めての夏へ向けて、一歩ずつ前進を続けている。(デイリースポーツ・西岡 誠)

 ◆岩上 昌由(いわがみ・まさよし)1976年4月13日生まれ。広島県三原市出身。174センチ、80キロ。幼少期に神戸市へ移り住み、高校時代は報徳学園でプレー。神戸学院大を経て、99年から香川西へ赴任し、春夏通算5度の甲子園に出場。14年から岡山理大付のコーチを務め、17年4月から神戸学院大付へ。今夏の兵庫大会で敗戦後、監督に就任した。同校の社会科教諭。

 ◆神戸学院大付 1912年に私立森裁縫女学校として創立し、36年に兵庫区会下山に校舎が完成。48年の学制改革により、神戸森高等学校へ移行。66年の神戸学院大開学にともない、神戸学院女子高等学校に改称した。2001年から現在の校名となり、男女共学となった。16年4月に神戸市中央区のポートアイランドに校舎を移転。野球部も同時に、学校の近隣地に専用グラウンドを作った。

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