【芸能】誕生50周年「ウルトラマンとは何だったのか」~原点は“ファジー”な魅力

 ウルトラQとウルトラマンのテレビ放送開始(1966年)から50年の節目となった2016年も残りわずか。だが、メモリアルイヤーは終わらない。ウルトラマンは67年4月まで放映され、初の劇場映画が同年7月に公開されたという観点でいえば、年が明けても“ウルトラマン50周年”は続くのだ。そんな背景を踏まえて、66~67年のお宝グッズを収めた「ウルトラマン トレジャーズ」が12月8日に発売された。

 世代や国境を超え、日本発の文化として定着したウルトラマン。初めて世に現れたリアルタイムの少年たちはどう受け止めたのか。娯楽映画研究家の佐藤利明、当時小学5年生だった映画監督の金子修介に「ウルトラマンとは何だったのか」という原点を聞いた。

 佐藤は「-トレジャーズ」のプロデュース、構成、企画、執筆を担当。当時3歳、付いたばかりの物心にブラウン管の勇姿を刻んだ。「あの頃は月光仮面とか隠密剣士などしかいない時代。ゴジラはヒーローとして存在してないわけだから。それ以前にウルトラマン(的な存在)はいなかった。そこから始まって50年が今ですから、すごいもんですよ」

 金子監督は「年賀状にウルトラマンの絵を描いて、右隅に『カラー』と書いた(笑)」という少年だった。

 「ウルトラマンを最初に見た時、すごく異様だった。新しさもあったけど、なんか変だった。あれは服なのか、肌なのか。あれは目玉なのか…。今までになかった存在なわけだから。その“かっこよさ”は、それまでのかっこよさではない。例えば、スペシウム光線の構えをして、ふっと腰を揺らすとか、僕らもマネしたわけですよ。かっこいいからじゃなくて、そういう違和感にひかれて。まぁ、それもかっこいいんですけど、あれは何だったんだろうと…」

 単純明快なかっこよさではなく、違和感をはらんだ“不思議なかっこよさ”。金子監督は、その感覚を「ファジー」と表現した。

 「ウルトラマンは宇宙怪獣を追ってきた途中で、地球人(ハヤタ隊員)とぶつかって死なせてしまう。(責任を感じて)『君と一緒に生きよう』みたいな、その設定がすごい。相手は人として死んでいるんだけど、自分の命をあげようという。ところが一心同体のはずなのに、ウルトラマンが怪獣を倒して空へと去って行くと、こっちからハヤタ隊員が現れたり。最後にウルトラマンがゼットンに倒された時のハヤタの設定もあいまいというか、いい加減なんだ(笑)。いい加減なんだけど、ファジーな感じで謎が多い。ウルトラセブン(67~68年放映)になると、そういうことが解決されていくんだけど、僕はウルトラマンのファジーな部分の方が面白かった」

 金子監督は日活ロマンポルノの現場で修行し、84年、あの「エースをねらえ!」をパロディ化した「宇能鴻一郎の濡れて打つ」で劇場映画の監督デビュー。90年代初期は織田裕二主演「就職戦線異状なし」などバブル景気の名残が残るトレンディーもの、中期以降は平成ガメラシリーズ3作を監督。今世紀に入っても「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」や「デスノート」など幅広い。

 ロマンポルノを出発点に、特撮、ホラー、アイドルもの(ちなみにAKB48「ハート・エレキ」MVも)を量産したアルチザン(職人)は、TBS系「ウルトラマン・マックス」(05年)も演出。オマージュを捧げた。

 そんな金子監督と佐藤が12月に都内でトークイベントを行った。流星バッジやフラッシュビーム型ボールペンが当たるシスコのウルトラマンチョコレート(66年9月発売)や、東京・銀座の松屋デパートでもらえたという伝説のウルトラマンソノシート(怪獣の鳴き声入り)など、お宝画像に会場が沸いた。

 「-トレジャーズ」にはお宝50アイテムが収蔵。37歳で早世した沖縄出身の脚本家・金城哲夫が残した創作ノートは手書きの絵コンテや表紙のワッペンがはがれた跡まで再現され、同氏も手掛けたウルトラマンの第18話「遊星から来た兄弟」の台本は円谷英二のサイン入りで復刻された。

 佐藤氏は「50年前から僕たちへのプレゼントであり、50年後に残す僕たちからのタイムカプセル。最初はノスタルジーでも、そこから見えてくるものがある」と語る。「50年楽しんできて、今後20年もさらに楽しめる。『ウルトラマンとは何だったのか』という子どもの頃の疑問がよみがえってきた」と金子監督。17年も新作公開が控えている。=敬称略=(デイリースポーツ・北村泰介)

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