阪本順治&オダギリジョー 過酷撮影を乗り越えた映画「エルネスト」

チェ・ゲバラと行動を共にした日系人がいた──。骨太の力強い作品を撮る名匠・阪本順治監督が、オダギリジョーとタッグを組んで撮りあげた話題の大作『エルネスト』が、10月6日から全国で公開される。キューバとの合作は多くの困難に見舞われたが、それを乗り越えての製作は、得るものも大きかったと言う2人に話を訊いた。

取材・文/春岡勇二 写真/本郷淳三

「やりがいのある題材に出会えた」(阪本監督

──この作品を撮ることになった経緯から、まず教えてください。

阪本「4年前になるのかな。別の企画でオリジナル作品を構想しているときに、登場人物の1人を日系移民にしようと考えていろいろ調べているうちに、チェ・ゲバラと一緒に戦った日系人がいると、今回の主人公であるフレディ前村のことを知ったんです。ゲバラのことはある程度知っているつもりだったんですが、彼のことはまったく知らなった。こんな人がいたのかと驚きました」

──フレディ前村のどういうところに特に興味をひかれたのですか?

阪本「彼は1962年に故国ボリビアからキューバに留学して医学を学んでいるんです。つまり、彼は医師を志していたんです。それがどうして、後に革命家として銃を持つことになったのか。大学在学中の5年間にいったいなにがあったのか。そこを描いてみたいと思いました。革命の戦闘シーンとか、ゲリラ戦の様子とかを追うんではなくて、チェ・ゲバラとともに戦った日系人の、名もなき医学生の姿を追いたかったんです」

──チェ・ゲバラも、もともと医師ですよね。

阪本「そう。だから、この映画は2人の医師の物語でもあるんです」

──映画の冒頭で広島を訪ねたチェ・ゲバラが、原爆慰霊碑とともに原爆病院を訪ねるシーンが印象的でした。

阪本「あれも彼が医師だからこそですね。彼が広島を訪ねた3年後に、フレディ前村はハバナの大学に留学しますが、映画で描いた通り、入学してわずか5日後にキューバ危機が勃発し、すわ核戦争という局面が起こます。あのとき、あの国でもっとも原爆の悲惨さを知っていたのはチェ・ゲバラだったのです。広島の病院を訪ねるシーンはそのことを裏打ちするものです」

──なるほど。チェ・ゲバラが広島を訪ねたことがあるのは知っていましたが、それがキューバ革命を成功させたわずか半年後の1959年の7月だったことは知りませんでした。

阪本「だから、当時の日本ではほとんど彼のことが知られていなくて、これも映画で描きましたが、広島での彼を取材したのは中国新聞の記者の1人だけだったんです。いまでは、そのときのことを記した本も出版されて多くの人が知るところにはなりましたけど」

──その取材記者を演じた永山絢斗さんの初々しい感じもいいです。広島のシークェンスの最後が、1人で再び慰霊碑を訪れたチェ・ゲバラが写真を撮るカットですが。

阪本「彼はカメラが趣味で、世界中を訪れて多くの写真を撮っていますが、広島ではたった2枚しか撮りませんでした。安易な気持ちではシャッターが切れなかったのでしょう。あのシーンは、本当に彼が撮った、彼が残した2枚のうちの1枚を撮るところを再現したものです」

──とてもいい写真だし、いいシーンだと思いました。今回、1人の日系人の若者とチェ・ゲバラのことを描いた背景には、いまの時代だから、みたいなこともあったのですか?

阪本「いや、そういう時代の要請に応えて、みたいなことは考えなかったですね。今回はフレディ松村という人の存在を知り、僕ら日本人が50年前のキューバを再現する困難さを踏まえて、そういうやりがいのある題材に出会えた、その喜びが大きく、その思いを大切にした感じです」

──なるほど。主人公のフレディ役をオダギリジョーさんに演じてもらおうという考えは早い段階から決めていたのですか?

阪本「そうですね。プロット(物語の設計図)の段階でオファーしましたから。取材して浮かびあがってきた、寡黙で誠実な人柄というフレディ像が僕のなかでオダギリくんと重なったんです。それと、こういった作品で主役の人選を誤るととんでもないことになるじゃないですか(笑)。海外での製作で多くの困難が予想されるなか、トラブルが起こったときに『困った、困った』と言う人じゃなく、一緒になんとか前に進めてくれる人じゃないと。しかも、現地での日本人俳優はたった1人。そう考えたらオダギリくんしかいない」

 

──オダギリさんは、監督からオファーされたとき、すぐにこれは引き受けようとなったのですか?

オダギリ「ええ、なりました。まず、阪本監督とプロデューサーの椎井さんは、心から信頼できる数少ない映画人ですし、困難は予想されるけど逆に簡単に想像できる作品に参加してもおもしろくないじゃないですか。無難な作品よりも挑戦的な作品に関わりたいんですよね。だからうれしかったですね、今の日本でこんなチャレンジングな企画がなされていること自体が。断る理由はなかったです」

阪本「あと取材を進めていたら、フレディを知る人たちが言うには、フレディは黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)のなかで一番若い侍を演じた木村功さんとよく似ていたと言うんです。それを聞いて、『あ、そういえばオダギリくんも似てるな』と思ったりしました。まあ、これはもうオファーした後での話ですが(笑)」

「人間として自信がついた」(オダギリ ジョー)

──宮口精二演じる剣客に憧れる若い侍というのが、チェ・ゲバラに憧れる感じと重なったのかな。

阪本「いや、風貌が似ていたと。でも、そんな繊細な感じもどこか通じていたかもしれない。オダギリくんはオダギリくんで、親戚によく似ていた人がいたって言ってたよな」

オダギリ「そう、母方の従兄が写真で見るフレディさんにそっくりなんですよ(笑)」

──そうなんだ。オダギリさんご自身は、フレディさんと似たところとかありますか?

オダギリ「夢や目標に向かうと、周囲のことが見えなくなるくらいのめり込んでしまうところとかは似ているかもしれません(笑)」

──演じる上で意識されたこととかありますか?

オダギリ「関係者の方にお話をうかがうと、フレディさんはご兄弟のなかで一番日本人らしかったとおっしゃるんです。そこに演じる側として興味がありました。今回初めての外国人役だったのですが、自分が演じる意味のひとつとして、フレディさんのなかに日本人らしさみたいなものを醸し出せたら、というのをポイントとしていたところはあります」

阪本「フレディさんは5人兄弟で、お姉さんのマリーさんにお話をうかがったり、撮影の許可を取りに行ったりして、そのとき聞いたのが、ほかの兄弟は小さいころから歌ったり踊ったりが好きでいかにもラテン系なんだけど、フレディだけは歌うときにすごく照れて、歌えなかったと。あの子だけが、日本人のお父さんの血を引いてたって、そんな言い方もされてました。小さいころから寡黙でシャイで、また父親ゆずりで意志の強い子だったって」

──そういうところはオダギリさんの芝居のなかにちゃんと生かされてますね。今回、阪本作品にしては珍しく、現場でどんどん脚本が変わっていったようですが。

阪本「フレディが軍事訓練を受けるシーンや、最後に彼の生涯をハイライト的につなごうと考えていたシーンを省きました。それは単純に言うと、銃や軍事機材の調達ができなかったからです。日本では銃や軍服も映画の小道具として揃っていますが、キューバではそうはいかない。すべて本当の軍に協力してもらって調達するわけなんですが、今回、それが順調にいかなかったんです」

──それはなにか理由があったのですか?

阪本「軍の協力には国家評議会議長のラウル・カストロ(フィデルの弟)の認可が要るのですが、撮影時期、彼が忙しすぎたということです。なにしろその時期、オバマ大統領がアメリカの大統領として88年ぶりに訪問してきたり、その後は日本からも安倍首相が訪れたりしてたんです。僕らの撮影申請書もラウルの机の上に置かれるまではしていたらしいですが、そんな時期、それはもう後回しになりますよね(笑)」

──大変な時期に重なっちゃたわけですね。

阪本「それで、いつまでも待ってるわけにはいかないので、仕方なくそういったシーンを省いていったのですが、ただ減らすのは悔しいので、その分フレディの他のシーンを増やしたんです。そうしたら、軍事訓練のシーンなどははっきり言って映画を盛り上げるために考えていたわけなんですけど、それが減ってすっきりして、またフレディの学生生活を描いたシーンが増え、革命兵士になる前の彼を描こうと思っていた本来の趣旨に、結果的に立ち戻ることができました」

──困難な状況が逆にいい方に作用したわけですね。オダギリさんは現場ではどう思われていたんですか?

オダギリ「監督が言われた通り、撮影できないからって止まっているわけにはいかないですから。なんとか前に進めて撮り切ることだけを考えていました。ただ、学生のフレディが思いを寄せている女性と過ごすシーンがいくつかあるんですが、あのシーンはどこも台詞が多くて大変でした。監督に『フレディはどうして彼女の前でだけはこんなに饒舌なんですか!』って問いただしました(笑)」

──2人のシーンはワンカットで撮られているところが多く、ワンカットも長いのに。

阪本「あのシーンを撮ってるころは、もうオダギリくんへの負担とか考えてなかったものね(笑)。また、オダギリくんは台詞とか完璧に入っているから、こちらの要求にいくらでも応えてくれるし」

──そうしていろいろと大変だったわけですけど、それでもキューバで映画を撮るということには魅力があったんですね。

阪本「それはありました。キューバはまだまだ未知の国で、そこでしか観られないものや感じられないことがたくさんありましたし。僕らにとってキューバというのは、やはりどこか憧れの国でもありましたから。また、個人的なことで言うと、30歳で監督になり、来年60歳になるのですが、50代のうちに大きな仕事をやりたいという思いはずっとあって、この映画を撮って、それはできたなという達成感がありました」

オダギリ「これ以上ない過酷な作品とも言えますが、それを乗り越えて、こうして完成できたというのは、大きな自信になりました。俳優としてもそうですが、人間として自信がついたという方が大きいですね」

(Lmaga.jp)

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