呉港中、甲子園優勝レリーフの謎

 甲子園歴史館内に展示されている呉港のレリーフ
2枚

 国民の熱狂を誘う甲子園の戦い。それは一瞬のことだ。日々の練習、そして地元での厳しい戦いを勝ち抜いた末、選手は大舞台に立つ。甲子園の外にこそ、ドラマは数多くある。今回は中でも野球から一歩引いた“場外ミステリー”にスポットを当てる。

 呉港中。戦前、後のミスタータイガースとなる藤村富美男らの大活躍で甲子園にたびたび出場、1934年夏には全国優勝を果たしている。

 同年、甲子園北東の地に、20回大会を記念して「野球塔」が建てられた。その壁部には、呉港を含めた歴代優勝校の選手名などが掘られた銅製のレリーフが貼られてあった。

 今、広島県呉市の同校正門脇には、同様の物が記念碑として飾られてある。ところが各校1枚しか製造されなかった同校のレリーフが、現在、甲子園球場内の甲子園歴史館にも展示されているのだ。

 呉港・寺田保浩教諭は1978年に同校入学、野球部に在籍した。寺田教諭が当時の宇都宮哲朗監督、松田稔彦野球部長らからの情報を持ち寄ったところ、75年あたりには現物が校内の展示室にあり、校舎を建て替えた81年に、記念碑として整備されたという。

 ただこちらのレリーフは、レプリカという説もあり、また持ち込まれた時期も不明、学校に寄贈した人物は藤村富美男ではないか、とされているがこれも定かではない。

 一方の甲子園歴史館のものは、田名部和裕日本高野連理事によると、68年ころに箕面の開業医が古物商で見つけて買い取り、高野連に寄贈したものだという。

 しかしこのレリーフの、最大の謎は2枚あることではない。先述したとおり、戦前に作られたもので、戦局が厳しくなった43年の金属類回収令を受け、すべて軍に供出したはずだった。

 ところが20年以上たって、なんと数枚が甲子園浜で発見されたというのだ。

 その数枚のうち1枚が呉港中のものであり、他には慶応普通部、高松商のものが現存する。

 この、空白の20年。甲子園歴史館によると「銅製でもあり、劣化も少ないことから、ずっと浜にあったとは考えづらい。誰かが保管していたのでは」という推論が成り立つ。

 そもそも供出したはずのものだ。軍部の誰かが、再利用をはばかったのか。軍部に渡る前に、誰かが隠したのか。だとしたら甲子園浜に破棄する理由は何か。

 軍国主義に取り込まれまいとした高校野球のロマン、その象徴を持ち続けることへの逡巡(しゅんじゅん)、それとも…。

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