大河ドラマ「豊臣兄弟」明智光秀は織田信長の信頼をなぜ勝ち取ることができたのか? 識者語る
大河ドラマ「豊臣兄弟」第12回は「小谷城の再会」。羽柴秀吉のライバルというべき存在は明智光秀ですが、光秀の生年や前半生についてははっきりした事は分かっていません。肥後熊本藩主細川家の家史に『綿考輯録』がありますが、それによると光秀は信長に仕える前は、越前国の朝倉義景に仕え、5百貫の知行を与えられていたと言います。光秀は「大筒の妙術」に優れていたとされますが、定かではありません。
兄の足利義輝を三好三人衆らに殺害された足利義昭は越前の朝倉氏を頼りますが、光秀はそこで義昭の家臣になったとの説もあります。義昭は朝倉氏は頼りにならないとして、信長を頼り岐阜に赴くことになりますが、両者(義昭と信長)の対面に向けて尽力していたのが、細川藤孝(彼は義輝にも仕えていた)や光秀だったとされます(ちなみに光秀は藤孝に仕えていたとの見解もあります)。信長と対面した光秀は信長に仕官を勧められたようですが、その理由を光秀は「我等、彼室家に縁ありて」と述べています。「彼室家」というのは、織田信長の正室・濃姫(美濃国の斎藤道三の娘)のことです。
光秀は濃姫の縁者であるので、信長から招かれたと言っているのです。しかしこれは信憑性に難ある部分もある『綿考輯録』に記述されている逸話であり、本当か否かは不明です。来日し、信長とも面会したことがあるポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスは『日本史』において光秀のことを「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」と書いています。信長は光秀の人物をたちどころに見抜き、自分に仕えよと誘ったのかもしれません。
秀吉も信長に仕える時には「直訴」したとの説もあります。その時、信長は「猿のような顔をしているが、気がきいて使えそうな男だ」と言い、秀吉の仕官を許したとされます(『太閤記』)。光秀は信長の正室の縁者だったのかもしれませんが、それだけではなく、その「才知」を信長に認められ、織田家中で出世していったのではないでしょうか。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長』(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
(歴史学者・濱田 浩一郎)
