24年間のサラリーマン生活から転身 75歳の現役ボサノバギタリスト・木村純のセカンドライフ(前編)
木村純(75)は、日本におけるボサノバのギタリストの草分けと言える存在だ。スケジュール帳はライブや企業イベント、80人ほど生徒がいるというレッスンなどでぎっしり。埋まっていない日はないほどで、大半は1日に複数の予定が入っている。
木村は「僕は断らないから。ありがたい、いちいち断ったら申し訳ないと思う。例えばボランティアみたいな仕事でもやっちゃうので、みんな気安く(依頼)できるからいい」と謙遜する。
75歳の今も多忙を極めている木村だが、実は脱サラ組であり、現在の顔はセカンドキャリアということになる。
ボサノバに目覚めたのは中学2年生のころ。セルジオ・メンデス&ブラジル’66が台頭してきた時代だ。いとこの影響でジャズを聴いており下地はあったが、ラジオで耳にしたボサノバに魅了されてギターを手に取った。当時全盛のビートルズやベンチャーズには全く興味がなく、フォークもピーター、ポール&マリーくらいしか聴かなかった。木村はボサノバギターの魅力を「コードワークが面白い」と言う。
新しい音楽とあって日本でなじみがなく、同級生も知らなかったが「好きなものは好き」と突き進んだ。いとこや3歳上の姉の友人ら年長の仲間は聴いていたが、周囲に実践している人はおらず、レコードからの耳コピで独学した。輸入レコードも入手しづらい時代、住んでいた横浜のなじみのレコード店主が入荷すると教えてくれた。
「ジョアン・ジルベルト(ボサノバのギタリスト、歌手)は最初は素人だった。指が10本ある条件が同じだから、やってやれないことはない」と気持ちを昇華。初心者が耳コピでボサノバとはハードルが高いようだが、木村は「最初からやれば怖くはない。何かをやり始めて、分かってきたころに難しさが分かるから。最初の怖いもの知らずがあるし、それが一番いい状態だと思う。何が難しいか易しいか分からないじゃないですか」と考えており、生徒にもそう教えている。
2~3年たつと人前で弾ける自信がつき、高校2年生でボサノバのグループを結成。学校は違うがボサノバ仲間が形成されており、パーティーなど演奏する場もできた。バーデン・パウエル(ボサノバのギタリスト)に衝撃を受け、高校3年生の時に赤坂のキャバレーまで聴きに行って、楽屋を訪ねたという。
大学に進学してもギターは続け、バンドを組んで多くのパーティーで演奏したが、音楽で食べていく気は全くなかった。「僕の技量では追いついていけないし、ボサノバはニッチな世界ですから仕事としては絶対無理だろうなということと、家族が全くミュージシャンになるなんてとんでもないという感じで、会社員ありき。全く音楽で身を立てようなんてこれっぽっちも思わず、趣味で行くと思っていた」
小学校の時から今に至るまで車と犬と音楽が大好きで「それ以外は興味ない」。就職で車の仕事を選んだのも「三つのうちどれかと思った時、音楽は僕の実力じゃ無理だと思った。当時ブリーダーは仕事にならなかった。そうなると車しかない。おやじとおふくろも車が無類に好きで、2人でよくレースとかラリーをやっていたので、僕が車の仕事に携わるのは大賛成で、やれやれって」という理由からだった。
就職先はアルファロメオを扱っていた伊藤忠で、同社がアルファロメオの取り扱いを止めた時に「好きなこと以外は全く興味が持てない質(たち)」の木村は退職。食品関係の商社に転職したが「全然車と違う」と3年ほどでここも退職し、BMWジャパンの立ち上げに参加した。24年におよんだサラリーマン生活の間、ボサノバギターは趣味で続けた。
運命が暗転したのは1990年代後半、47歳の時に取引先が問題を起こし、責任を取って失職する憂き目に遭う。負債を背負わされ、自宅も売却する羽目になった。職を求めていろいろな面接を受けたが、ことごとく落ちた。日本はバブル崩壊から失われた30年に突入したばかりで、50歳近い人間が雇われることは難しかった。それでもBMWの代理店である長野県の会社に就職し、音楽もやめるつもりでいたが「どうしてもやめられなかったのがあって、結局ミュージシャンになってしまった」。
音楽で生活できる自信は全くなかったが「全ては前に進むしかない」と思い、音楽仲間である三四朗も「純さん、プロになれると思うよ」と背中を押した。三四朗はバークリー音楽院を卒業し、ソニーからメジャーデビュー。ショーン・レノンのレコーディングに参加し、東京ドームでも演奏したサックス奏者だ。
木村は「三四朗が誘ってくれる仕事が引きも切らずだったので、そのままずるずる引き込まれちゃった」と笑う。「音楽の世界のことをいろいろ教えてもらって、彼はポップスが得意だからそういう世界の音楽の知識も教えてもらって、いろいろなことに対応できるように力をつけてもらった」と今も感謝している。
47歳での再出発はストリートでの演奏からだった。「恥ずかしかった。うちの子供の友だちが見たらなんて言おうかとか、親戚とか元の会社の取引先とか同僚が見たらなんて説明しようかと思ってずっと頭が上げられなかった」と、当初は強い抵抗感があった。(後編に続く)
