夜明け壊滅の神戸の街を歩きはじめた これからも私たちは未来へ歩き続ける 駅舎はつぶれビルは傾き #阪神淡路大震災から30年
もう30年がたった。阪神・淡路大震災当日に書いたルポはどこへいったのか。入社3年目の若手記者だった私は神戸市灘区、六甲山の麓にあった独身寮で大きな揺れを経験。交通機関がマヒした中、悲惨な光景を目にしながら三宮にあった本社ビルまで歩いた記憶を掘り起こしてみた。
◇ ◇
余震の恐怖と寒さに震えながら、原稿用紙にペンを走らせた。顔をあげると、道路を挟んだビルの3階部分がつぶれていた。「このビルは大丈夫なのだろうか」。窓ガラスが割れ、ブラインドが垂れ下がる本社ビル2階の編集フロアで、明かりを求め窓際で作業をした。
ゴーという音で目が覚めた。稲光とともに激しい揺れ。落雷なのか、寮が崩壊しているのか。何が何だか分からない。恐怖の時間が終わると、部屋を飛び出し、寮生で地震だったことを確認した。
人生で初めて経験した大地震だったが、地震断層からずれていたのだろう。寮は大きな被害はなかった。夜明けを待って、後輩記者とともに本社ビルを目指した。寮長から「寮生全員無事」を本社へ報告する使命も受け出発。1キロほど南に下ったとき、想像を絶する光景に誰もが声を失った。
道路は隆起し、ホコリが舞い、ビルが傾き、倒壊した家屋が並んでいた。さらに南に行くと寮の最寄り駅であるJR六甲道の駅舎はつぶれていた。大渋滞の国道2号線に出て歩道を歩いていると、包帯をした被災者と何人もすれ違った。あの光景は、小学生のときに映画「はだしのゲン」で見た被爆した広島の街のシーンのようだった。
信じられない惨状が続く中、JR灘駅付近からは線路沿いを歩いた。途中の神鋼記念病院の玄関前には、毛布にくるまれた人が乗っていると思われるストレッチャーが寒空のもとに並んでいた。
三宮に到着。家屋やビルの倒壊を見続けて歩いてきたこともあったのだろう。本社ビルは窓ガラスが割れていたものの建物は立っていた。後に全壊判定を受けるとは知らず「大丈夫。本社は倒れていない」と安堵(あんど)したことを鮮明に覚えている。
東側の通用口から3階の総務部に「寮生全員無事」を報告。コンクリート片やガラス片が散らばり、広い部屋にはロウソクの明かりとともにポツンと総務部幹部の一人がイスに腰かけていた。放心状態のような様子に会社の危機を感じた。
2階の編集フロアに降りると、ロウソクを囲むように幹部が立ったまま話し合いをしていた。「ルポを書け」と指令が下り、寮生は三宮の街に散った。ゴジラに踏みつぶされたような街。この世の終わりを感じた。公衆電話には長蛇の列。サラリーマンは三宮の会社の様子を関係者に伝えようと列に並んでいた。
原稿を書き上げると帰宅するよううながされた。寮まで片道2時間。早起きの疲れを感じながら夕暮れの中、再び歩きはじめた。決死の思いで書いたルポは、送稿できずボツになった。それよりも翌日、甚大な被害を受けているはずの販売店から寮に届けてくれた「助けて!!」の新聞を手にとったとき、どれだけの人が苦労をして制作したのかと考えると自然と涙が出てきた。
◇ ◇
30年の月日が流れたが、震災の日は新聞発行継続に尽力した先人の意志を引き継いでいかなければならないと改めて思う日でもある。災害列島の日本。現在は、中日スポーツなどとスポーツ紙災害支援協定を結び新聞発行継続に備えている(デイリースポーツ・岩本隆)
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