渡部陽一氏 戦場カメラマンが見た“絶望”からの歩み【3・11東日本大震災10年…】

 2011年当時を語る渡部陽一氏
 2011年当時を語る渡部陽一氏
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 2011年3月11日に発生した東日本大震災から10年がたちます。デイリースポーツでは「思いをつなぐ…」と題して連載を企画。第2回は戦場カメラマンの渡部陽一氏(48)です。震災発生から約1週間後に被災地に入り、その後は毎年のように東北の沿岸部を中心に訪問。ファインダー越しに見えた街や人々の様子を語りました。

  ◇  ◇

 10年前、渡部氏は東京・六本木ヒルズ52階での写真展の会見中に震災に遭遇した。激しい揺れで天井の一部が外れ、場内は悲鳴に包まれるなど現場は大混乱。記者もその場にいたが、渡部氏は首元のカメラに触れず、しゃがみ込みながら様子をうかがっていた。

 その理由を問うと「状況をしっかり確認したいという思いがありましたね」と思い返した。突然の事態。「想定できなかった」と動揺した一方で、冷静に俯瞰(ふかん)に努めた。約1週間後、空路と陸路で被災地へ。最初に目にした岩手・陸前高田市の惨状に、体は震え言葉を失った。

 「紛争地では爆撃などで被害状況が点のような形になることが多いが、高田に入った時は面だった。土砂と家屋で一面が埋め尽くされている。復興が本当にできるのか、想像ができない状況だった」

 自衛隊や消防団ががれきを除いて作った道を進んだ。大船渡、宮古、釜石…。戦場カメラマンとしての幾多の取材経験をもってしても、絶望しか持てなかった。それから10年。「日本人として記録を残したい」と、目に見えるもの全てを写真に収めてきた。

 映ったのは目に見える復興のスピードと、東北人の“強さ”だった。訪問するたびに景色が変わる。沿岸部の土地はかさ上げされ、大津波に耐える巨大な堤防がそびえ立ち、新しい建物が次々と完成していく。また、家族を失い憔悴(しょうすい)し切った被災者が、その街の仲間に囲まれた時に見せる素の表情に心を奪われた。

 「ずっと泣いていた方が、少しだけ集まるとちょっと笑ったりとか。周りの方が冗談ときつさと慰めが絡まったような言葉をよく使うんですよ。その瞬間の、何か日常の一コマを見た時に、ちょっとハッとすることは何度もありましたね」

 取材開始当初は「気持ちが入り過ぎて、自分自身も動けなかった」と声をかけることができなかった。だからこそ、一瞬だけ見せる顔が強く脳裏に刻まれ「自分が動けることは素直にやりたい」と通い続けた。発する言葉に耳を傾け、発信する活動を続けることで交流が深まり、今では直筆での手紙で近況を伝え合っている。

 悲嘆から前進しようという思いは、被災者の総意だ。取材で「最後の復興への一歩は、暮らしている自分たちでやるしかない」という決意の言葉を多く聞いた。「底力のような不動の精神、力を感じますね」。依然として「見える復興と生活の復興は違う。この10年の取材で感じたことです」と課題は残る。だが、被災者の“底力”に真の復興は可能であると確信している。

 被災地以外の私たちができることとして「取材でも旅でも、東北に行くこと。東京で東北の物産展をやっていれば行ってみる。そんなできることを力まずに続けることが、復興に向けた土台になると思います」と力説。自らも新型コロナが猛威を振るうこの1年は東北に足を運べておらず「コロナが明けたらすぐにでも行きたい」と日常を取り戻した後に思いをはせている。

 「力まずに沿岸部の友人のご自宅にあいさつに行ったり、民宿に泊まってみたり、(取材の際に)出会った子供たちが新しい仕事をされているところを見に行ったり、若い世代のメディア関係者に会ったりしてみたいですね」

 シャッターを“あえて切らなかった”震災の瞬間から10年。戦場カメラマンの被災地とのつながりは、生涯にわたって続いていく。

 ◆渡部陽一(わたなべ・よういち)1972年9月1日生まれ、静岡県富士市出身。明治学院大学在学中から紛争地域を専門に取材を続け、イラク戦争では米軍従軍(EMBED)取材を経験。これまで、ルワンダ内戦、コソボ紛争、チェチェン紛争、ソマリア内戦など、多くの紛争地域を取材。戦場カメラマンとしての活動の他、タレントやナレーション活動も行っている。

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